探し出すだけ

第22期(2015年8月-9月)

 そして生活は続きます。生活のなかで100年が経ちます。トーキョーは光の街。わたしが死にます。大往生です。いい100年だったと振り返る。おおむねいい100年だった。
 というのはもちろん嘘で、いまは2015年9月の終わりのほうの夜。高校生のときからの愛媛の友だちと、愛媛とトーキョーのあいだにある夢みたいなところに来ています。夢にはよく、行ったことのない、ほんとうには存在しないだろう景色が出てきて、そこには懐かしい家族や友だちがそろって登場したりもする。ハロウィン期間中の遊園地で、離れて暮らす友だちと遊ぶことは、なんだかすごく夢のなかみたいだった。遊び疲れた友だちふたりはもう眠ってしまっていて、電気の消えた部屋でわたしはひとり起きていて、この文章を書いています。今日いちにちのことを振り返ります。それどころか、この3年のことを振り返ります。この友だちたちと3人で3年前にも旅行をしました。卒業旅行の城崎です。城崎には雨が、ときどき雪を交ぜながら降っていました。それらに降られながら温泉に浸かりました。慣れない下駄にへとへとになって宿に戻り豪華な食事をたいらげ、布団を並べて電気を消す。天井の電気のオレンジ色のいちばん小さいやつだけを光らせて、それをぼんやり見つめながら、3人でとりとめのない話をしました。お互いに、「わたしは傷ついているのかもしれない」と言うようなことを、核心にふれないように、脈絡なく、ぽつぽつと話した気がする。それでいて、朝が来ると3人そろって平気な顔をして、高校時代と変わらない顔で朝風呂を浴びる。豪華な朝食に笑う。
 今回はもうはちゃめちゃに疲れてしまったから眠りまで一直線で、話をする暇なんてなく、でも、かまわない。
 というのも半分は嘘で、わたしもふたりと同じくあっという間に眠ってしまった。翌朝起きて、3人で「いつ眠ったかわからんな。気づいたらもう朝だった」と笑いあった。朝食バイキングにはしゃぎ、ホテルを出るとスーパー銭湯に向かいます。わたしたちは高校生のころから3人で何度か温泉に行くことをしていて、3人で旅行するなら温泉でしょと決めていたのだけど、今回は遊園地が目的で、遊園地の近くに温泉が見つからず、見つかったスーパー銭湯で我慢することにしたのでした。それでスーパー銭湯でも大はしゃぎです。
 楽しい時間はあっという間で、わたしは新幹線でトーキョーに戻るけど、友だちは高速バスで愛媛に帰る。3人でバスを待ちます。
「バスが出るまではここで見送るよ」とわたしはふたりに言う。
「手を振ってね」と友だちが言う。
「降るよ」
「ダイナミックに」
「うん」
「それで、バスが出たら走って追いかけてや」
「わかった。それで、あのへんで転ぶ」とわたしは少し先の交差点を指さす。
「ばっちりだわ。ムービー撮っとく」と友だちが笑う。
 バスが来て、友だちふたりがバスに乗り込みます。バスの窓は遮光のため黒く光っていて、わたしからは車内が見えない。友だちからLINEで「こっちからはよく見える」とわたしがひとり立っているようすの写真が送られてくる。わたしもバスの、友だちがいるだろうあたりを写真に撮って、送る。バス待ちする知らないおばさんを撮ったような写真が撮れた。バスが発車します。わたしはダイナミックに手を振る。黒く光るバスの窓の向こうに白いひらひらしたものがぼんやり見えて、それがたぶん友だちのてのひらです。わたしはダイナミックに手を振っている。走り出せ、とじぶんに対して強くおもって、そのときは走り出せないのだけれど、バスが信号に引っかかって止まったから、わー、チャンスは一度きり! 走り出していた。うまく転ぶことはできなかった、交差点でバスに追いつき、信号が変わり、ふたたび発車したバスに向かってもう一度ダイナミックに手を振る。手を振るわたしにふたりが気づいたかどうか、知らない。
 そして生活は続きます。生活のなかで100年が経つことだろうとおもう。ある日、とうとつに電話をかけて「うちらがハロウィンの遊園地に行ってから、こっちでは50年が経った」と報告をすると、「だろうね、こっちでも50年が経ったよ」と笑わる。愉快なようなかなしいような気持ちでわたしは泣き出す。わたしたちはお互いやっぱり永遠には生きられないんだ。電話の向こうではまだ笑い声がきこえるけれど、相手もきっと泣いているなとかんじる。どうだろう。50年後にはもう電話はないかもしれない。
 あるかもしれないこの先のことや、確かにあったこれまでのこと、あったかもしれないこれまでのことを無数に数えて暮らしています。わたしたち、あのとき、傷ついているのかもしれないってことを話しました。でも、傷ついていたかもしれないそのとき、そればっかりじゃなかったことも知っていた。「あのとき傷ついていた」ことを言っても「あのとき美味しいものを食べた」ことや「あのとき楽しい話をした」ことはなかったことにはならないことはわたしにとっての救いのひとつだ。たとえば、他に、わたしがトーキョーを愛していても、わたしのトーキョーに対する妬みみたいな恨みみたいな気持ちもちゃんとあり続けてくれる。ふるさとを愛していることがなかったことにはならない。わたしはいつかあなたたちを失った悲しみを書くのかもしれないけど、そうなったとして、あなたたちの存在は喪失の悲しみだけをわたしにもたらしたわけでは決してなく、あなたたちといまこうして笑っていることが、わたしはほんとうに楽しい。嬉しいです。
 わたしを乗せた新幹線は、快適に、無事にトーキョーに戻ります。オーケー、生活を続けましょう。どうか、生活のなかでお会いしましょう。生きているうちの遊びを繰り返しましょう。じゃあ、またね。

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夕 海がかんたんに凪ぐ 永遠が永遠の呼び水になるように
/仲野証拠「呼び水」『シュシューカチ 創刊号』(2012年)より

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