それでも紫陽花は咲いていた #1 「魔女の住む家」

第25期(2016年2月-3月)

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 青い背表紙を撫でるのは、白く細い指。

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 私が魔女に初めて会ったのは、私がまだ十二の夏だった。
 新しい「父」と、「父」との間に新たに生まれる弟か妹を身ごもった母親の邪魔をしないために、父親の知り合いの伝てで紹介された彼女のもとにひと夏の間世話になることになっていた。

 数枚の着替えと本、学校で使う教本や筆記帳だけを携えた私は街の外れで車を降ろされた。
 「この地図に行き方は書いておいたよ。父さんは家まで送って行けないけれど、一本道だから迷うことはまず無い。向こうの人と仲良くして、お手伝いもするんだよ」
 忙しい義父や身重の母の代わりに私を送ってくれた父さんは、私の頭を何度も撫でてから帰った。
 私は小さな紙片に描かれた地図を頼りに、山の中へと入っていった。
 緑したたる山の中、ひたすら坂道を登っていった。青々とした樹の葉が幾重にも紗を透かしたように、夏の陽光を緑に染め上げていた。
 やがて手元の地図の通り、上り坂の右手に細い小径を見つけた。此処を曲がれば目的の家に着くらしい。私は額を伝う汗を拭いながら細い小径へと入った。
 はじめに視えたのは、紫陽花の生垣と樫でできた古い門扉だった。表札は出ていなかったが、周りには一軒の民家もない。目的の家は此処だろうと見当をつけ、私は門を開けた。

 広い庭には夏の花々が咲き乱れ、その向こうにこぢんまりとした古い家が建っていた。
 門から家までは赤い土の小径が濡れたリボンのように横たわり、草苺や螢葛、金襴草が縁どりのレースのように咲いている。待宵草やベロニカがあちらこちらに茂みを作り、その間を縫うようにジギタリスや鳥兜が花をつけていた。
 全体的に手入れの行き届いた庭とは呼べず、植物たちがめいめい勝手に居心地のよい場所を見つけて、腰を落ち着けたような庭だった。
 咲くに任せているようでいて美しく無いという事は決して無く、むしろその大らかさが好ましかった。
 玄関ポーチにも表札は無い。ただ一つ小さなランプが下がっており、床には白い貝殻と水色のタイルで複雑な模様が描かれていた。
 私はしばらく迷ってから呼び鈴を鳴らした。しかし何の気配も無い。試しにもう一度鳴らしてみても、中から誰かが出てくるどころか返事すら聞こえなかった。
 留守?いやそんな筈は無い。今日私が来る事は、何週間も前から父が知らせておいたのだ。
 試しに真鍮のドアノブを捻ってみた。鍵は開いている。
 私は恐る恐る扉の隙間から中を覗き込んだ。
 「あの。すみません」
 タイル張りの玄関も、古い木の廊下もしっかりと磨き上げられている。玄関先の白い花壜には、青い紫陽花の花がたっぷりと生けられていた。
 「誰かいませんか」
 大きく聲を張り上げてもなんの返事も無い。
 と、ふわりと胸を撫でおろすような香りが鼻腔をくすぐった。どうやら花の香りであるその匂いは、奥の部屋から漂ってくるらしい。
 私は芳しい香りに誘われるようにして、廊下へと足を踏み入れた。
 廊下の突き当たりにある部屋はダイニングキッチンだったようで、裏庭と直結していた。
 開け放たれた扉ごしに見た裏庭に、一人の女性が立っていた。
 歳の頃はよくわからない。二十代から三十代にも、もっとそれ以上の大人にも、十代の娘にも見える。彼女はモスグリーンの服に東欧柄のエプロンを身に付け、庭でラベンダーの花を摘んでいた。
 先ほどからの香りの正体はこれだったのだと、今更ながらに気がついた。
 「・・・あの、」
 遠慮がちに聲をかければ、彼女は驚いたようにこちらを振り返った。大きな瞳は吸い込まれそうな、不思議な色合いをしていた。美しいひとだった。
 「あら、気づかなくてごめんなさい。すっかり仕事に集中していたものだから」
 ほろりと零れるように微笑うと、彼女はエプロンに付いた花をぱん、ぱんと払ってから部屋に戻った。
 「紅茶にする?ハーブティーにする?それとも冷たいジューレップソォダがいいかしら。暑かったでしょう?とりあえずお座りなさいな。レモネェドも作っておいたのよ。きっと汗を沢山かいているだろうと思って」
 私の事は何も聞かずに、いそいそとキッチンへ消えてゆく彼女をただ呆然と見送る。
 立ったままも無作法と思い、部屋の中心に据えられた大きなパイン材のテーブルの端に座った。椅子には古い天鵞絨が張ってあり、簡素ながらも座り心地が良かった。
 「本に出てくる、魔女の家みたい」
 部屋をぐるりと見渡して私は最初にそう呟いた。
 明るい室内は古い書棚とキャビネット、それに天井を埋め尽くさんばかりに吊るされた薬草や、ドライハーブで手狭に見えた。
 書棚は分厚い布張りの本で隙間なく埋まり、キャビネットの中には蒼色や透明な硝子壜と様々な鉱石、何かの頭骨や洋墨壜などがところ狭しと並んでいた。
 それともう一つ、病院や医務室にあるような白色のキャビネットの中に、大小様々な薬壜が収められていた。
 テーブルの上には開いたままの分厚い筆記帳と洋墨壜が置かれている。
 彼女のお気に入りの花なのか、白い陶器に青い模様の入った花瓶には、玄関と同じ紫陽花が生けられていた。
 「はい、どうぞ」
 コトリと小さな音を立てて目の前に置かれたのは青い切子模様の洋杯だった。つんと香るミントの葉を添えた薄荷ソォダだ。ひと口飲めばころころと泡立つ炭酸とともにすがすがしいライムの味がした。
 「……美味しい」
 よかったわ。そう言って微笑む彼女は同じ青い洋杯でレモネェドを飲んでいた。
 「お庭で何をしていたんですか」
 「ラベンダーの花を刈っていたのよ。まとめてポプリにしたり、吊るして乾かしたりお茶に入れたり」
 裏庭を見れば、ラベンダーの他にも色々なハーブが植わっているらしかった。
 さて、と飲み干した洋杯を置き、おもむろに彼女は立ち上がった。
 「あなたの部屋はもう用意してあるの。ついてきて」
 
 私の為に用意された部屋は、二階の右側の屋根裏部屋だった。屋根裏と言っても窮屈ではない。
 大きな窓にはネルのカーテンがかかっていたし、ライティングビューローにはやはり紫陽花が生けてある。ベッドサイドには小さな抽斗と、瑠璃色のシェードがかかった小さなランプまで置かれていた。
 「もし何か足りないものがあったら遠慮なく言ってね」
 「いいえ、充分です。あの…本当にありがとうございます。夏のあいだ、お世話になります」
 私は持っていた荷物を床に下ろして深々と頭を下げた。彼女はいいのよ、と笑って首を横に振った。
 私はそんな彼女の仕草を見て、漸く彼女の名前すら訊いていない事に気がついた。
 「あなたのお名前は――」
 「魔女」
 淀み無く答える彼女の言葉に、私はえ、ともは、ともつかない聲を出した。
 「知り合いは皆そう呼んでるわ。・・・名前を呼ばれるのは苦手なの」
 魔女はそう言うと、蒼く塗った爪の指先を唇に当てて微笑った。

 

 魔女との生活は不思議なものだった。
 朝早くに起き、夜眠る。当たり前の生活を続けているはずなのに、たとえば毎日の新聞や、水道料金の払込み用紙や、カレンダーや領収書、そう言った現実めいたものは何一つ目にする事は無かった。
 また、魔女は一度も私に名前を訊ねなかった。まるでずっと昔から親しい友人にそうしたように、「あなた」と呼ぶ。
 そこには他人行儀な白々しさは一切なく、細い事は気にしないで、とでも言うような親しみが込められていた。
 だから私は最後まで魔女の名を知ることは無かったし、強ばった敬語も数日のうちに消え失せていた。
 「名前というのは、薬に貼るラベルと一緒よ。物事の本質を常に顕していなければいけないわ」
 さらさらと透明な硝子筆で、何かを筆記帳に書きつけながら魔女は言った。
 「ここでは必要ないものよ」
 「本質って、何?」
 私が訊ねると、魔女はそうねえ、と呟くと分厚い布張りの筆記帳をぱたんと閉じた。
 窓から六月の陽光が燦々とテーブルに差し込んでいる。魔女はその虚空を見つめて水晶色の硝子筆をかかげ、空中に筆先をすべらせた。
 「自分の心が、たましいが求める姿よ」
 何もつけていない筈の筆先から黝(あおぐろ)い洋墨が滲んで、魔女はそのペンで空中に字を書いて見せた。流麗で少し細い文字は、ふわりと漂いながら夜明けの天色に透きとおっていた。
 「たとえば私が魔女であるように。花が朝開くように。月が雨に泣くように」
 私はその美しい文字が書き連ねられ、一篇の詩になるさまをただじっと見ていた。
 「あなたが女の子であるように。本来の自分でありたいと願う姿よ」
 私は自分の服装を眺めた。サスペンダーのついた半ズボンに、黒い靴下と革の靴、短く切られた髪。新しい義父が男の子を欲しがっているからと、母が私の髪を切って用意したものだった。
 「父さんから聞いていたの…?」
 そうではない事は自分で知っていた。長く伸ばしていた髪を切り、大好きなワンピースを着ない私に、久しぶりに会った父はひどく驚いた顔をしていたから。
 「さぁ、どうしてかしらね」
 困ったようにはぐらかした魔女は、御守りに、と机の抽斗から手のひらに包み込める大きさの鉱石を私の手に乗せた。
 夜明けを待つ夜天のように澄んだ、深く青みがかった菫色の石だった。陽に透かすと藍(あお)が深まり、かと思えば薄明が近づいたような黄色に変わった。
 「菫青石という鉱石よ。あなた自身がどうしたいのか、自分の本質は何処にあるのか、見失う事のないように――」
 それが魔女の魔法を初めて見た日の出来事だった。

 魔女の仕事は処方箋を出す事だった。
 処方箋と言ってもただの薬ではなく、言葉の薬を出す事が生業だった。
 魔女の客は性別年齢問わず、何処から聞きつけてやってくるのか大人から子供まで様々だった。沢山の人は何かしらの悩みや心の問題を抱え、それを癒してくれる彼女の物語を欲しがった。
 「たとえば現実に疲れ果て、何もかもを捨ててしまいたくなった時、一冊の本が救いになったりすることがあるでしょう」
 魔女は硝子筆で小さな紙に字を綴りながら静かに言った。私は魔女が物語を生み出す時の、さりさりと紙をペンがすべる微かな音と、彼女の雨音のようにぽつぽつと注ぐ聲が好きだった。
 「魔女も、現実に傷付けられたことがあるの」
 仕事机に向かう彼女に、窓辺に座した私は訊ねた。窓の外は水無月の雨で、幾筋もの雨垂れが玻璃を撫でた。
 「この歳まで生きていれば、嫌になるほどうんざりさせられたわ。でも美しい言葉というものは、現実がなければ生まれないのよ」
 窓の外を見やる彼女は左手の指に嵌められた銀の指環を撫でた。それが彼女が考え込む時の癖だった。
 「言葉というものは残酷ね、一度唇から離れてしまえば取り消せないんだもの。…だから現実を伴う言葉は危険で、大切なものなのよ」
 私には、彼女の言わんとしている意味が良く分からなかった。ただ、その現実とやらが彼女を酷く傷つけたような気がしてならなかった。
 「さぁ、出来た」
 魔女が書いたものは、今朝小さな女の子が注文しにきた物語だった。少女が亡くなった母親を探しに花が咲く常春の国を訪ねる、愛らしい御伽噺だ。
 魔女は戸棚から取り出した青い薬壜に丸めて入れると、ラベルに少女の名前を書き入れた。
 「哀しみを癒すには、甘い薬が一番」
 薬棚に新たに収められた処方箋は、女の子に引き渡されるのだろう。
 「あなたにもひとつ何か書いてあげましょうか」
 魔女の急な申し出にどぎまぎして、私は言葉に詰まってしまった。
 「…私は、魔女みたいに自分で物語が書いてみたい。魔女が創るような、きらきらした物語」
 笑われやしないかと冷や汗をかいたが、魔女はおおいに喜んだ。
 「弟子を持ったのは初めてよ」
 そう言って、弟子入りを志願した訳でもないのに抽斗から万年筆を取り出して、私に手渡した。
 「物語を綴る時、青い洋墨を入れてお使いなさい。私のお下がりで悪いけれど、貸してあげるわ」
 万年筆は澄んだ海のようにこっくりと濃い蒼色の、薄く削ったセルロイドでできていた。
 けれど、結局私は魔女に物語を書いてもらうことも、自分の物語を読んでもらう事もなかった。

 それからの話は少々かいつまむ。
 私は結局夏の終わりまで、魔女の家で暮らすことは無かった。
 あの万年筆を借りた一週間後、私は父さんと暮らす事になりあの家を出た。
 魔女は父との電話を切った私の話を聞くと、そう。良かったわねと言ったきり、そのことについては何も言わなかった。
 「また遊びに来るよ」
 家を後にする時、私がそう言っても黙って笑いながら手を振るだけだった。
 生垣の紫陽花は初めて来た日と同じように、滴るような青色で咲いていた。
 庭を抜け、門を出て小径に入るまで、何度振り返っても魔女は笑って手を振っていた。

 小径を抜け、鳥の聲を聴きながら坂を下る途中、私は重大な忘れ物に気がついた。
 あの青い万年筆を、魔女に返し忘れたまま出てきてしまったのだ。私は慌てて踵を返した。
 つい先程歩いたばかりの小径を駆け抜け、紫陽花の生垣を抜けた私は目の前に広がる景色の違和感に立ち尽くした。
 夏の花の咲き乱れる庭は見る影も無く、荒れ果てた庭の向こうにぼろぼろに朽ちた家がかろうじて佇んでいた。
 窓硝子は割れ、壁の漆喰はところどころ剥げている。
 まるで百年前からそうしていたかのような静寂が横たわっていた。
 同じように朽ちかけた生垣で、ただ紫陽花だけが変わらずに咲いていた。

 街へ戻り「発見」された私が父から聞いた話では、私は父と別れたあの日から行方不明になっていたらしい。
 父の知人は山の中腹に住んでいる老夫婦で、魔女のことも、あの家のこともとうとう何も分からなかった。
 魔女とは一体なんだったのか、彼女は何から逃げていたのか。

 私がまだ幼かった頃の話だ。