裸になって泳ぐ

第27期(2016年6月-7月)

朝起きたら、8時半。
映画が始まるのは、9時半。
家から映画館まで、自転車で15分。
(休みの日にまで、せかせか準備したくない)
来週の上映スケジュールを見る。
上映予定、午前中の一本のみ。
行けない。

大抵の場合、上映が午前中に一本のみの映画は見逃す。
休みの日に、朝起きられないからだ。
(起きるか否かもぞもぞしている間に寝てしまう)

それでも、今回は、起きた。
急いで準備をして、観に行ったのは「リップヴァンウィンクルの花嫁」。

岩井俊二監督の映画は、「花とアリス」「リリイシュシュのすべて」を一度ずつ観ただけ。

「岩井俊二の「ピクニック」を観て、日本の暗い映画に目覚めた」という話を友人(彼女は、幼少期からアメリカに住んでいるため日本語はあまり得意ではないが、両親が関西人で絶妙にキレのある関西弁で喋る。)から聞いて、借りてみたものの、踏み込んだ足を途中で引き返してしまった。

現実(風の)世界の中に、架空の設定が織り込まれた映像が苦手なのだ。今回の作品だと、TwitterらしきSNSサイトのキャラクター(Twitterだと鳥)がねこかんむりだったり、LINEらしきアプリの表示がとってもかわいい文字だったり。そういう「創作」の部分に、たじろいでしまう。

でも、現実で受け入れているキャラクターもデザインも、誰かが「創作」したものなのだと、はっとする。客観的になってみて初めて、人口の創作物を、なんの疑問も持たずに受け入れ、利用していることに気付く。それって、実は危険なことなのかもしれない。

主人公の七海は、そんな危険の真っただ中で生活している。日常のささいなことをいつでもSNSに投稿するような、誰かとつながっていないと不安な、声の小さな女の子。ネットのお見合いサイトを介して「あっさり」手にいれてしまった彼氏と流れるように結婚し、また、流れに抗うことなく離婚する。

夫のよそよそしい態度への不安、離婚し、帰る場所をなくした不安を抱える七海が、事あるごとに頼るのが、どう考えたって怪しい男、安室。
結婚式の招待客があまりにも少ないことを夫に責められた七海が、(ネットで)偶然知って利用した、結婚式への代理出席サービス。その仕事を取り仕切っていたのが、安室だ。

帰る場所を失い、ホテルで清掃のバイトをしながら生活する七海に安室が紹介するのが、人の住んでいない屋敷に住みながらそこの管理をするというメイドの仕事。半ば強引に屋敷に連れて行かれた七海は、しかし、逃げ出すこともなく、特段不満を言うこともなく、いつ誰が使ったかもわからないベッドに腰をおろし、すやすやと眠ってしまう。

実はその屋敷にはもう一人、七海と同じようにメイドとして雇われ、そこで暮らしている女性「真白」がいるのだが、彼女と七海は、以前安室から紹介されたバイトで一度出会っている。

女優の仕事をしているという奔放な女性真白。七海は、彼女との共同生活を始めた。

この物語の主人公である七海には、強い意思がない。必死の努力も決死の勝負もせず、恋人も、結婚も、離婚も、住居も、仕事も、流れる先々でたどり着いたそれらを受け入れてゆく。

まさにおとぎ話のような物語だ。
でも、この物語で、七海は白馬の王子様を手に入れない。
七海に残るのは、魔法のような日々の記憶と、これから続くであろう生活だ。

それでも、この物語がたどり着く先は、ハッピーエンドとして示されている。
と、わたしは思う。

七海が流れ漂っていく姿を見ているうちに、なんとなく、「それもいいかも」なんて思えてくるのだ。

大学を休学して香川にやってきたのは自分の意思だったけれど、芸術祭が終わり卒業論文も書いてしまって目的も目標もなくなってしまったわたしは、しかし七海のように流れ漂うことを許せなかった。

頑張らなくちゃいけない気がするけれど頑張りたい「何か」がなく、その「何か」がない自分には生きる価値なんてないような気さえしていた。

そんなときに、小豆島で「迷路のまちの本屋さん」の店長になるという機会がやってきた。
その機会をくれたのが、完全予約制の古本屋「なタ書」の店主・キキさんだ。

迷路のまちの本屋さんは、ギャラリーに併設されたカフェの壁に供えられた本棚のスペースを指す。だから、本屋さん、なんて名乗ってもいいものか、いつも説明するのに戸惑う。当時小豆島に事務所を構えていた、出版社・サウダージブックスの淺野さんが運営していたのだが、もっと、本屋として成り立つ場所にしようと、たまたまそこにいたわたしが店長に任命された。

お給料は出ない。でも、なかっちゃん(出会ったばかりのときに、キキさんが「なかっちゃん」と呼び始め、以来、誰にでもその呼び名で紹介してくれるから、香川に来て知り合った人のほとんどがわたしを「なかっちゃん」と呼ぶ。中田さん・幸乃ちゃんと呼んでいた人も、気付けばなかっちゃんと呼んでいる。)がやりたいことがあればサポートをする。

つまり、報酬がない代わりに、リスクもない、ということ。

初めは、キキさんや淺野さんに言われるがままに、古本市をしたり、ゲストを招いてイベントをしたりしていたものの、指示がなければやりたいことが全く思い浮かばない。具体的にできる行動が、自分にはなかった。

何かやらなくちゃ、と焦りながら、定期的にやろうと決めていたイベントも集客が不安でやめてしまった。
何もできない自分を責めて動けず、動けない自分を責めてまた動けない。
本棚は触っていないと死んでしまう。
それは、多分誰が見てもわかるのだ。
それでも、本を発注して並べるという当たり前のことさえできなかったのは、もっと「何か」「特別な」ことをしなくちゃ、と思っていたからだったのだと思う。

そうして、辞めることも続けることも決められず、申し訳程度に小豆島に通っていたとき、ふとしたきっかけで、小豆島に住む矢田さんという方の蔵書展を企画することになった。

矢田さんとは、「町には本屋さんが必要です会議」通称「町本会」を迷路のまちの本屋さんで開催したときに知り合った。町本会は、往来堂書店の笈入さんと吉祥寺の出版社・夏葉社の島田さんが発起人となって始めた、その名の通り、町の本屋さんのこれからを全国各地で話し合うという会だ。

小豆島に島田さんをお招きし、「町の本屋さんには人の温かみがあるよね」、「なくなってほしくないよね」、と話をしていたわたしたちに対して、小豆島に生まれ育った矢田さんは、「欲しい本が島では買えなかった。できることならば、大きな、何でもそろう本屋が欲しい。」と言った。「島で本屋さんのことを話すといっても、実際にそこに住んでいる人のことを考えているわけではない。ただ、島で開催したという事実が欲しかったなのではないか。」とも。

矢田さんの言葉を聞いて、町の本屋さんがどうなるか、どうあるべきか、自分の中で答えを出すことができなくなった。
それに、「島」を特別視していたことに気付く事さえできていなかった、自分の態度が恥ずかしかった。

それでも、その日をきっかけに矢田さんと知り合い、やりとりをするようになった。昔から本が大好きだったという矢田さんのお宅に絵本を見に行かせていただき、そこで、思い入れのある本のエピソードを聞いているうちに、自然と、本の展示企画が持ち上がったのだ。

淺野さんからの案で、本にまつわる短いエッセイを書いていただき、本と一緒に展示した。

「本はわたしの遺言なのだ」と締めくくられる矢田さんのエッセイは、本のことを語りながら、家族の記憶をたどり浮き上がらせていく。たった一冊でもいい。その本と出会った日のこと、その本を読んだときのことを知ることで、こんなにも豊かな物語が立ち上がるのだと、矢田さんのエッセイを読んで思った。当たり前のことなのかもしれないけれど、それは、そのときの自分にとって、ものすごい発見だった。

本があるということは、そこに、人生があるという証拠になるのだ。

「本屋」という場所を与えられて、特別なことをしなくてはいけないのだと焦っていたけ。でも、本は、間違いなく存在していて、誰かが手に取ってくれるのを待っている。わたしはその一冊と、誰かが出会うきっかけを作ることができるのだ。

本の展示企画は、「うちんくの本棚」という名でその後も続けたが、どなたの本棚も面白くて、また、エッセイが本当に素晴らしかった。そこに並んだ本を手に取り、エッセイを読むと、なんだか気持ちが楽になった。

今は、小豆島に住んでいるふたりと、部活動みたいな気持ちで迷路のまちの本屋さんを続けている。
矢田さんとは最近会えていないけれど、本をきっかけに出会ったもう一人のお母さんみたいな存在だ。

大きく舵を振り切ることができないとき、ただ流れてゆくのもいい。今あるものを、丁寧に掬いあげていけばいい。流れの中に放り出されて初めて、その流れを受け入れてもいいのだと、わたしは知った。

そして、流れに逆らうことのなかった七海は、物語の中で、真白と暮らしていくことを選ぶ。唯一、自分の意思で。

わたしも七海も、自分の実体験の中で、流れを受け入れること、流れの中で何かを選ぶことを知る。そのきっかけをくれたのが、安室だったし、キキさんだった。励ましの言葉より慰めの言葉より、ただ「仕事」を与えてくれた人。

物語の終盤で、真白が言う長い台詞がある。

「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」

放り出されて初めて、自分の無力さがわかる。それがわかって初めて、本当の意味で人に出会うことができたような気がする。
幸せだらけ、と言う真白の言葉が、なんとなくだけれど、わかる。

安室は架空の人物だけど、キキさんは高松にいます。会ってみてほしい、ちょっと。