偏愛総進撃第五回 青空に「なる」

第29期(2016年10月-11月)

青空になる、ということ

青空を見あげる、ではない。
青空を翔ける、でもない。
青空になる。とは、いったいどういうことなのだろうか。

仮面ライダークウガ(2000)についての話をしたい。平成仮面ライダーシリーズの第一作目にして超人気作。シリーズ最高傑作にあげる人も多い作品である。ステロタイプな悪の組織が存在せず、男らしさを称揚する描写が少なく、必殺技も叫ばない、それまでのいわゆる「仮面ライダー」像をくつがえす作品群は、ここからうまれた。一般的にはオダギリジョーの出世作としても有名である。警察と連携しつつ、緻密に犯人を追う作劇が高く評価されてもいる。そこまで有名な作品を、なぜここで取り上げる必要があるのか。

クウガの主人公、五代雄介は悪を憎まない。力強いわけでもない。人を殴る感触が嫌で、戦いも好きではない。軍隊や特殊な組織で訓練を受けたこともない。それでも彼はただ、目の前にいる人の笑顔を守ろうとする。正義のためでも自由のためでもなく、目の前の笑顔のためだけに戦う。相棒である刑事、一条とは不器用な深い友情で結ばれている。

クウガという作品に対し、私個人の評価は揺れている。
主人公造形はあまりにも聖人過ぎる。敵組織は言葉すらわからない絶対恐怖として描かれ、対話や投降の呼びかけもみられない。厳しい倫理道徳で貫かれていく世界は、見ようによっては、息苦しい。
しかし、この作品の最終話に至る過程は、あまりにも悲しすぎるのである。
以下、ネタバレになるかもしれないが、あらすじを述べる。

敵組織グロンギ族は、快楽のために殺人を行うという文化をもった異民族であった。巻き込まれた主人公五代雄介は、「みんなの笑顔」を守るために、警察と連携し殺人を止めていく。怪人を殴り殺し、蹴り殺しながら。いつも笑顔だった五代から、番組の進行に従って徐々に笑顔が消えていく。たとえ敵が快楽殺人者たちであっても、五代は彼らを殴りたくない。人を殴る感触が、骨の折れる音が、五代の笑顔を奪う。暴力をふるう気持ち悪さと、自分が自分でなくなっていくような恐怖に耐えながら、五代は笑顔を作り続ける。自分が笑顔でないと、警察官たちも、友人たちも笑顔でいられないから。
番組後半、敵の王、究極の闇が復活する。同族すら呼吸するように殺す究極のサイコパスであった王は、楽しむために五代との戦いを希望する。五代は、泣きながら王と殴り合う。王が幸せそうな表情で死んだのを見届けて、五代の戦いは終わる。
以後、五代の顔は映らない。画面には、他国を放浪する背中や、足だけが映し出される。

グロンギを楽しませるためには、五代は戦士クウガでなければいけなかった。
究極の闇を笑顔にするために、五代は永遠に笑顔を失った。
誰よりも笑うことが好きだった青年は、だから相棒や恋人のもとを去らねばならなかった。
なぜ、そこまでしてすべての笑顔を守らねばならなかったのか。
お前の笑顔はそこに含まれないのか、五代雄介よ。
お前は本当に、みんなの笑顔を守れたのか。
笑えなくなったお前は、泣けるのか。

月光仮面は正義のためには戦わなかった、らしい。正義は神や仏の領域だ、というのがその理由だと聞く。だから彼は正義の「味方」なのだと。あくまで人間にできるのは正義の味方でしかない。

時代は流れ、平成ライダー第一号のヒーローは正義の味方すら名乗らなかった。大上段から正義を語れない時代、もっとも身近な「笑顔」のためならば暴力は肯定されるのか。

・・・五代雄介は一年間戦い、身をもってこの問いに答えた。ここまで暴力を嫌った特撮主人公を、私はほとんど知らない。

この最終回ゆえに、仮面ライダークウガは私の心に深く刻みつけられている。

深呼吸。青空になる。とエンディングテーマが流れる。
青空に「なる」。
彼は青空になった。
青空とは、なんなのか。
何が彼を、青空にしたのか。
彼のくれた笑顔だけをポケットにしまって、僕たちは、日々を生きる。