偏愛総進撃第八回 お前は、誰だ。

第29期(2016年10月-11月)

お前は誰だ、と聞かれたとき、ヒーローは名乗り、口上を述べる。
なぜ、口上が付くのか。
ここに人間の希望があると知らしめるため、と本郷猛なら答えるだろうか。許せない巨悪に対して断罪の恐怖を与えるため、と答えるのは一乗寺烈だろう。特捜戦隊デカレンジャーのように、職業上そもそも身分を名乗る必要がある場合もあるだろう。
だが、そのどれでもないパフォーマンスがある。民衆に対してでも、敵に対してでもない、独語としての自己定義。例として仮面ライダーウィザード(2012)が発する「ショータイムだ」は、戦闘の恐怖から逃げつつ、自己のテンションをあげるためのある種の自己催眠だと考えられる。

では、鷹山仁とはなんだったのか。
この連載では初めて、現在進行中の作品の話をしたい。仮面ライダーアマゾンズ(2016)。バンダイ玩具展開の縛りや幼児向けの規制から解放されることによって原点回帰を目指した、限定配信のドラマである。

なお仮面ライダーアマゾン(1974)とは違う番組である(1974年版は、言語もわからず都会に連れ出されたターザンの悲哀と、美少年や獣人との友情を描く傑作であった。もし機会があればこちらもお勧めしたい)。

「アマゾンズ」は、製薬会社の実験場とされた町で、人を食う病人たちと、それを駆除する会社の私兵たち、そしてその二勢力の間で揺れる人々を描いている。この作品には二人の仮面ライダーが登場する。養殖と野生、二人のアマゾン。「養殖のライダー」である水澤悠は、製薬会社社長の息子である引きこもりである。「野生のライダー」である鷹山仁は、そんな悠の先輩として登場する戦士だ。小さなアパートに恋人と二人暮らし、生卵をそのまま飲み込み、ワイルドな服装を纏い変身する男。それが鷹山仁である。

突然本題から入る。
鷹山仁は物語の中に生きている。
物語の中でしか生きられない。物語を、設定と言い換えてもいい。
「アマゾンズ」全体の物語ではない。鷹山仁が設定し、鷹山仁が演じ、鷹山仁がシナリオを描き、彼女がプロデュースする、鷹山仁と彼女だけの物語だ。鷹山仁の「野生」は全てが嘘だ。野生のライダーであるはずの鷹山仁の動きが、格闘技として洗練されたものであるのがまずおかしい。野生「という設定」。自分で作ったその設定の中で、鷹山仁は戦う。
製薬会社の科学者であった仁にとって、自分が怪物になる後遺症は受け入れがたかった。仁自信を含めたあらゆる発病者をその手で殺す。という彼の人生の目的は、結局のところ逃避だ。殺す、と決めてしまえば、そしてその通りにふるまえば、世界は彼の意図した物語になる。怪物を殺すもの、として自己定義をし直す。組織に裏切られた科学者と、その恋人による美しく退廃的な復讐劇。その物語の中では、彼は人間のために戦い、そして死ぬ。ここにおいて、恋人は物語を仁に何度も再話し、世界の存在強度を上げる役割を果たす。仁は野生、と繰り返し、仁を甘やかす彼女には、共依存のゆるやかな狂気がある。生卵をかじり、ワイルドに食事をし、乱暴に彼女を抱き寄せる鷹山仁。それは全て設定だ。彼女は嘘と設定を理解しつつ、その中にいる。今が壊れなければいい、と願いながら。

しかし、世界は仁が描いた物語ではなかった。正義も悪もなく、そこには、病人たちと人間たちの生きたいという意志だけが渦巻いていた。

物語終盤、何が正しいかわからなくなる人々の中で、仁だけは怪物狩りをやめない。倒した敵にかぶりつき、その頭部を投げ捨てるパフォーマンス。これをわざわざ人目に付くところでやる必要など、本来はない。それをなぜ行うのか。「あいつは虫だ」と認識されることで、彼の物語が完全になるからだ。

彼にとってその設定だけが自分であってほしいのだ。設定にしがみつく以外の方法では、もう彼は自分を保てない。設定を自分に上書きすれば、自分がいなくなり楽になれる。

そんな仁に対する水澤悠は、「守りたいものを守り、狩りたいものを狩る」と宣言する。それは自己定義を更新し続けることであり、どんな物語にも吸収されず自分の人生を引き受けていく覚悟だ。養殖と言われた水澤悠は、野生であると自分をだまし続ける鷹山仁よりもずっと、「野生」に近い。

仁とは誰なのか。恋人は仁を解き放てるのか。そして、鷹山仁は恋人への無限の甘えをすて、彼女を個人として解放することができるのか。
仮面ライダーアマゾンズは、この秋、第二期に突入する。