偏愛総進撃第七回 夢よ踊れ

第29期(2016年10月-11月)

人は身体という入れ物に入っている。

よく聞く表現だが、これは不正確だ。デカルト的心身問題。私の意見としては、人間は身体でしかありえない。生じる際に肉体をもって生じている以上、肉体を離れて存在する何らかのエネルギーがあったとして、それは「私」ではない。別の何かであろう。
人は身体によって人であり生命である。
では、これをどうしても実感できないとき、生きることは出来るのだろうか。

仮面ライダー龍騎(2002)に登場した13人ライダーたちの中で、私にはどうしても忘れられない戦士がいる。仮面ライダーガイ=芝浦淳。

「龍騎」は実験作であった。本作での仮面ライダーは正義の味方ではなく、生き残りの総当たり戦をたたかう戦士である(一応、人間を食う怪物とも戦う)。最後まで生き残り、ほかの仮面ライダーを皆殺しにしたものには、願いを一つ叶える権利が与えられる。
繰り返す。本作の仮面ライダーは正義の味方ではない。前作「アギト」では、正義の在り方について対立する複数のライダーが登場したものの、邪悪な仮面ライダーは存在しなかった。龍騎、ではその前提がひっくり返される。全員が敵、というバトルロワイヤル的構造の中で、青年たちは自分の願いをかなえようとする。「自分の病気を治したい」「死にかけた恋人の命を救いたい」といった応援できるものから「犯罪の証拠を隠蔽したい」「ただ暴れたい」といった特殊な願いまで、13人の仮面ライダーはそれぞれの願いに対して誠実だ。

芝浦淳は、そんな龍騎のライダーたちの一人だった。TVゲームが大好きな若者で、戦いそのものを面白いゲームと捉え死闘に参戦してくる、冷酷で薄情なクズ。殺しにも暴力にもためらいはなく、どこか他人事のまま戦いを続ける。
彼には身体性というものがない。自己の痛みに対しても「へぇ、痛いんだ」といったような調子である。自己の痛みを感じないものが、他者の痛みを感じられるわけもなく、彼にとって敵は全て「それ」である。

我‐汝の関係を取り結ぼうとする主人公、真司に対しても、芝浦は徹底的に我‐それをもって応対する。芝浦にとって、我‐我の関係すら存在していない以上、そこに「汝」は存在しえない。彼の魂はビニール袋に包まれたゴミの様に扱われている。ほかでもない自分自身によって。

この芝浦淳が死ぬエピソードがある。
殺人鬼である浅倉を脱獄させ、ライダー同士の戦いに参戦させることによって「ゲームを面白く」しようとした芝浦は、その殺人鬼に利用され殺される。「俺がゲームを面白くしてやったのに」と呻く芝浦に対し、殺人鬼・浅倉は「お前がそこにいたからだ」とだけ返す。ゲーム外の人間による、遊戯盤のひっくり返し。自己が認識していた構造が崩壊する瞬間。
そのまま芝浦は死んだ。

芝浦と世界の間には膜があり、芝浦の心と芝浦の体の間にも膜がある。芝浦の心と体の間に存在する膜は、そのまま世界との間の膜でもある。心を閉ざしている、のではない。そもそも、芝浦淳は何かに心を開いたことがあるのか。楽しいねえ、というゲームに対しても、彼が心からそれを楽しんでいるようには見えない。感情そのものが動かず、故障した表情を無理やりドライブさせているような違和感が、芝浦にはある。
芝浦の心は身体に棲んでいない。芝浦の身体は心を宿していない。身体と精神が接続していなければ、すべてはバーチャルで、画面の向こうの出来事に等しい。

さて芝浦は、死の瞬間、はたして生きることができたのだろうか。
痛みを感じることができたのだろうか。
① 死だけが彼を一瞬の生へと引き戻した。
② 否、彼にとって死すらもバーチャルであった。

どちらの解釈もありえ、だからこそ私は「龍騎」が好きだ。

個人的には、芝浦は一瞬でも生きることができたと思いたい。
頭の回転が異常に早かった芝浦にとって、すべては計算可能であった。他者の行動も操作できた。だから、彼にとって世界は解析可能なゲームでしかなかった。
浅倉は、芝浦が唯一解析することができない(ゲーム外の)存在となり、芝浦に謎を突きつけた。動機そのものが解析不可能な殺人鬼。浅倉に殺される瞬間、芝浦はこの世界がそもそもゲームではないことに気が付いた。
この世界がゲームではないことに気が付いた芝浦の魂は身体に帰り、人間としての死を迎えることができた。

そうでなければ、悲しすぎる。

Alive a life. 芝浦淳は、生けたのだろうか。鏡の向こうへ。