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2F/当番ノート

い・い・ね !

当番ノート 第34期

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眠い。
私はいま、とてつもなく眠い。そんな片足夢につっこんだ状態で8回目のアパートメントを書こうと思う。

時代は変わり。現代人はスマートフォンという手のひらサイズの光る板のようなモノを持ち、その板はもちろんただの板ではなく、電話、手紙、CDプレイヤー、新聞紙、写真機、家計簿、掲示板…等の役割をすべて担ってくれるのでとても便利で、しかもそれはどこでも持ち運べるので電車、会社、カフェ、自宅はもちろんトイレや布団の中で利用することができる。それだけで凄い事だが、現代人は芸能人じゃなくてもアーティストでなくても映画監督じゃなくても小説家じゃなくても写真家でなくても日々の日常のあれこれや写真や絵や映像や文章などをSNSなどで気軽に思いついた時に発表&発信することができ、さらにそれをいろんな人が見る事ができ、ユーチューバーやブロガーというのは今では立派な職業として成り立っている。もちろん発信するだけでなく、誰かが発信した記事や写真や動画、もろもろを気軽に見る事ができるし、見るだけでなくそれについてコメントをつけたり、コメントはなんだか恥ずかしいな〜と思えば「いいね」という簡単なボタンひとつで「いいね!」という感情を相手に伝えることができるし、自分が「いいね!」と思ったモノをストックすることができる。

私も2017年に生きて生活する現代人なのでスマートフォンを持ち、あらゆるSNSをし、くだらない事をつぶやいたり、こうやって日記のようなものを書いたり、絵や写真を投稿したり、「展示をします」や「今夜酒場のカウンターに入ります」等と告知をしてみたりと活用しているし、自分の友人や弟達や尊敬するアーティストの日常や思いや最新の情報を知る事ができるので大変便利な時代になったなーと感じるのである。

しかし慣れというのは怖いもので最初は「なんだこれは!」と便利に思えたモノも、使っているうちにマンネリや習慣化が生じ、万人が目に触れるものと意識せずに自身の愚痴や不満や誰かに対する不満や、評論家でもないのに妙に賢ぶって「違う違うそうじゃない」的なことを発信してネット上で誰かとバトルしたり、ちょっとしたトラブルが起きたりとややこしいことが起きるので注意が必要なのだが、しかし、しかしだな、そんなことすべてを総括してそれがスマートフォンのある暮らしであり、そういうのがSNSであり、そういうのが今の時代というやつなんだけどね!と頭では分かっているのであるが、ぎりぎり昭和生まれの私にはそういうオッピロゲーで恥じらいのない習慣は受け入れ難い部分もあり、だからといってなんちゃらソローみたいに全てを捨てて森で生きて行く度胸も生命力もないので、なんとなく、ただなんとなくSNSをしてる。時代に必死にしがみつこうとしている感が否めない。頑固じじいのように「最近の若者は理解できない」などと言い兼ねず、だからといってSNSはものすっごーく便利なので生活と切り離す事ができず、私は宙ぶらりんに現代に生きている。

今まで「いいね!」という機能、というか現象についてあまり深く考えていなかったのだが、アパートメントを始めて「いいね!」がものすごく気になりだしてしまった。弊害である。こうやって必死に(みえないかもしれないが割と必死だ)カタカタと書いた文章達に「いいね!」がたくさんつくと嬉しいし、逆に「いいね!」が少ないと「あれ。今回はオモシロくなかったのかなぁ。しょぼ〜ん」と「いいね!」の数によって浮かれたり落ちたりと我ながら面倒くさいことになってしまうんだが、こんなことは「いいね!」という新しい文化が介入するまでなかったのだ。
そもそも「いいね!」って何だよ。なにが「いいね!」だよ。慣れ慣れしいんだよ。本当に腹の底から「いいね!」って思ってんのか?あぁ?答えてみろよ。クレイジーケンバンドの剣さんしか言っちゃいけないんだぞ「イーネ!」って。剣さんに断りいれたのかよ?インスタ映えって新種のハエかな?スタバの新作フラペチーノの写真上げて「いいね!」ってなんじゃそりゃ。まぁ確かにいつも、雨が降ろうが槍が降ろうがスタバのフラペチーノは美味しいよ。美味しいけどさ。なんで私のランチ代より高いフラペチーノの写真に「いいね!」がついて私の文章には「いいね!」がつかねーんだ?なぁ。
いや分かっているよ。そうだ。そうなんだ。私の必死のコラムよりフラペチーノのほうが「いいね!」なんだ。えへへ。それは知っていたよ。ごめん。いままでオラオラと「いいね!」を催促するヤクザみたいな振る舞いをしたけど、あれはぜんぶ僕の強がりみたいなもので、本当は私も「いいね!」してもらいたいんだ。本当は「いいね!」って言ってもらいたいんだ。だから「いいね!」って思ってなくても「いいね!」してくれよ。お願いだから「いいね!」って言ってくれ。頼む。あなたが「いいね!」してくれたら、私はあなたのことは忘れないんだからね!ね!ね!ね〜〜!お願い。「いいね!」があったら僕たちはもうそれでマブダチさ!あ〜、このすばらしき「いいね!」社会。「いいね!」って最高!!

このように「いいね!」が私達の生活に入り込んでしまってから私は混乱しているのだ。

誰かの評価がなければ何も生み出せないこと。
お金や結果の生じることだけでしか動けなくなっていくこと。
誰かに見せる事を前提に撮る写真。
誰かに見せる事を前提にした絵。
ブランド。あらかじめ評価のついたものしかすごいと思えない心。
肩書きや数字でしか語られないパーソナリティ。

まぁそれが社会というものなのかもしれない。(と社会不適応者の私は思う)
時間を忘れて、名前を忘れて、どろんこになって砂場で泥団子を作り続けた幼き頃。
なにを目的に、あないに何時間も泥団子を作り続けたのか。
泥団子がなんになったというのだ。
もちろん泥団子になんの意味もない。
意地悪な男子がドカドカと踏みつぶして、殴り合いの喧嘩をして、それで終わりだ。
じゃあなぜ、親に叱られるとわかりながら顔や手や服を泥だらけにして団子を必死でこさえたのか?
答えはイージー。楽しかったからだ。夢中だったからだ。興奮していたからだ。
最高の「遊び」とはそういうモノなのではないだろうか。
だけどそんな「遊び」は大人になったらできなくなってしまうのだろうか。
それはとても恐ろしいことだと縮み上がっている。

もっと「遊びたい」って思いませんか?
それはもちろん「朝までカラオケうぇ〜い!」ということじゃなくて
人の目やお金のことを気にしたりするのはやめて、
例えば心が勃起するような。
夢中になってみたいと思いませんか?
私は思う。へいへ〜い!
むっしゅかまやつのゴロワーズを聞いて泣きながらそう思う。

人からの「いいね!」ではなく、人に「いいね!」することでなく
「いいね!」に出くわしたり、そんで自分自身に「いいね!」と言って暮らせたら。

そう思う。

く、くけーーー!

兎に角私は、今、とてつもなく眠いということ。
よく遊んで、よく眠ろう。それが「いいね!」だよね。(睡魔に負けて最後は雑)
みなさんグンナイッ!

namazu eriko

namazu eriko

1985年、八ヶ岳出身。
神奈川県在住。
絵/テキスト/デザイン
たまに酒場のカウンター

8月は荒木町アートスナック番狂せのグループ展「八月、番狂せ、カレーとTシャツの庭」に参加しています。

Reviewed by
木澤 洋一

namazu erikoさんの連載第8回目。今回はSNSのいいね!について。いいねへの心の混乱具合の書きように笑ってしまった。
結末はとってもゆるくて、でもなにか真剣な様子だった。けど本当に遊ぶのは難しい!遊ぶ勇気がない、時間を使う勇気が無いんだ。

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