木々を巡る旅

第35期(2017年10月-11月)

01-0101-02

旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックをしょい
ポケットには
一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨の日がよい
萌え出でた若芽が
しっかりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

(高野悦子「二十歳の原点」より)

 

学生闘争の時代を駆け抜けた二十歳の女学生が、
自殺する直前に綴った一篇の詩。その冒頭部分。

初めて読んだ時、中心をつらぬかれたような思いがした。

自死という事実をもって、この詩の印象を決めるのはあまりにたやすい。
だけど思う、「あやうさ」などという形容によって損なわれた感性が、
この世界には一体どれだけあるのだろう、と。

山や森などの人間の営みとは逆なほうへと足を運ぶ時、必ずこの詩のことが頭をよぎる。

二年前、渋谷の会社で新卒として働いていた。

液晶画面と向かい合う日々に嫌気がさして、昼休みになるとよく会社を抜け出し、
近くの公園のベンチに座って目を閉じ、木々のさざめきを聴きながらぼんやりとしていた。

社員旅行で行った沖縄では、夜誰にも気づかれないようにホテルを抜け出して
海岸に置かれた小舟に上り、仰向けになって月を見つめていた。

広告をつくることを仕事の一部としていながら、
ある本で読んだ「広告されない美しさ」という言葉が
いつまでも頭を離れなかった。

そういう人間だった。
 
01-03

夏の終わり、ある森のなかで鹿のような一本の木と出会った。
そしてその頃から少しずつ、人生はどこか違う場所へと向かい始めたように思う。
 
01-04

木々を巡って森を歩くときは、必ず独りで行く。

奥深くへ分け入ると、自分が人間ではなく、
なにか別の生き物になったような錯覚を覚えることがある。
あるいは形すら持たないなにか、風のような存在へ。

そこに感情の起伏のようなものはほとんどない。
あてどない意識だけがそこに浮かんでいる。
いま生きているのだろうか。もう死んでいるのかもしれない。
そんなふうに考えたりする。

気がつくと、木々のかたちを前に立ち尽くしている。
そしてほとんど無感動のまま、写真を撮る。

そのようなことを、いつからか繰り返し続けている。
 
01-05

鹿のような木と出会ってから約半年後、勤めていた会社を辞めた。
ある種のまっとうさからは、もうはずれてしまったのかもしれない。

日々のことにあくせくしながら、いまは絵を描いている。
光だと信じられる、失いがたい実感のようなものがある。
それを手放さないようにと、日々どこかへ、何かへと祈るような気持ちでいる。

存在の祭りのなかへ向かっていきたいと絶えず思い続けている。

ひとりの盲(めし)いた生として。