おとなの五教科_7 国語【接続詞】

第36期(2017年12月-2018年1月)

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                  photo by rika minoda 2014/7 in ashinuma mashiko-cho tochigi pref.

北から東京へ向かう新幹線の車内、
通路を挟んで隣の席に、おそらく30代前半の両親と、小さな女の子の3人が座っていた。
お父さんは、とても良い姿勢で、ずっと静かに新聞を読み続けている。
女の子は、なにか動物のぬいぐるみを手にしていて、
かなり早熟なボキャブラリーで、お母さん相手に「ごっこ遊び」を続けている。

手にしたぬいぐるみは、どうやら「きりん」のようだ。
お母さんは、なにか他の動物の役を与えられているらしい。

(女の子) 「私の首がこんなに伸びてしまったのは、高い木の葉を食べるためなのよ、
       でも、ほんとうは、ほかのものが食べたいの」
(お母さん)「なにがたべたいの?」
(女の子) 「東京ランチ! 東京に着いたら、おばあちゃんと食べるの!」
(お母さん)「東京ランチって、おいしそうね、私も一緒に食べようかしら」
(女の子) 「あら、べつにいいけど・・・、あなたのお母さんは、どこにいるの?」
(お母さん)「わたし、お母さんは、いないのよ」( ← どうやら適当に答えている風)

 ここで、少しの(絶妙の)間があった。

(女の子) 「ええー! それじゃあ、あなたは、どうやって生まれてきたの?」

 お母さんは、答えられずに、笑うしかないようだった。

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photo by rika minoda 2015/8 in hanawa mashiko-cho tochigi pref.

羽田空港の出発ロビー。和食の店。
オープンキッチンの周りをぐるりと取り囲むカウンターに私は座って、
定食のお膳が運ばれてくるのを待っていた。

私の右隣には、白髪が少しだけ混じる黒髪をキュッと後ろで結んだ中年の女性と
その向こうには、小さく背中を丸めた、おそらく、隣の彼女の年老いた母親。
後ろには、車椅子が置いてある。

隣の女性が、老いた母親に話しかける。
(娘) 「お母さん、それ食べないの? 食べないなら、私が食べるから」
(老母)「・・・・・・」
(娘) 「・・・・・・」

そして、(娘)は、私に完全に背を向ける形で、(老母)のほうへ向き直り、非難の言葉をたたみかけ始めた。
(娘) 「だから、どうして残すの? 汚く食べ散らかさないでよ。
     食べないなら、私が食べるって言ったでしょ。そんな食べ残しじゃ、私は食べられないわよ」
(老母)「・・・・・・」
(娘) 「だーかーらー、お母さん、いつもそうよね、自分勝手よ。自分のことしか考えてないでしょ」
(老母)「・・・・・・」

後から席に着いた私の方が、食事を早く済ませ、席を立ち、
席の後ろに置いていたコートを羽織りながら、(老母)を見た。
座っていたときは、(娘)の背中でブロックされていた先の(老母)の姿に、目をやった。
(老母)は、箸をもち、皿の上に残ったシャケの皮を、少し残ったご飯の上に乗せ、
そして、また、皿に戻す、ということを繰り返していた。小刻みに震える箸で。
(老母)の声を聞くこともなく、私はレジに向かった。

—–

新幹線の(女の子)
「ええー! それじゃあ、あなたは、どうやって生まれてきたの?」 
というセリフで使われていた「それじゃあ」も、

和食の店の(娘)
「だーかーらー、お母さん、いつもそうよね、自分勝手よ。自分のことしか考えてないでしょ」
 の中の「だーかーらー」も、

どちらも文法的には「順接の接続詞」だ。

この2組の親子の会話を聞いたのは同じ日で、「それじゃあ」「だーかーらー」が、妙に心に残っていた。

接続詞(順接)は、
(A)だから(B)である。
(A)の部分が、理由であったり、原因となったりして、その結果(B)となることがもたらされる。
 つまり、(A) –→(B)という流れがある。
 

新幹線の(女の子)の場合
母の「私にはお母さんがいない」という発言 
–→ それを認めて受け入れた上で 
–→ (それでは)どうやって生まれてきたのかがわからない。
こんな素直な順接の流れがある。

和食の店の(娘)の場合
食べないなら自分が食べようと思っていたのに、老母が中途半端に食べ残した 
–→  (だから)老母は、自分勝手で自分のことしか考えていないと断定できる。
屈折した論理の(というより感情の)飛躍しか感じられない。

こう比較してみて、おとなってやつは(私も含めてなのだけど)
特に順接の接続詞の使い方には、よくよく気をつけないといけないと思い当たる。

(A)から始まり、(B)に至る・・・のではなく、
常に(B)を言いたいがために、(A)を使ってしまうのではないか?
常に(B)を言うために、無自覚のうちに(A)を探しているのではないか?

接続詞は、論理的な話の組み立てには役立つものであるけれど、
逆説の「しかし」も、順接の「だから」も、実は、
論理性よりは、話者の主観や感情が大きく入り込み、色を変える言葉でもある。

きりん役の女の子のように、(A)を認めて受け入れた上で、次に繋いでゆく、
素直で健やかな接続詞を自分の言葉として持ち続けたいと思う。