お茶会

第38期(2018年4月-5月)

2016年の6月に、ペルーへ行って先住民の儀式に参加しました。その経緯を書いてみます。

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(ペルーのクスコという都市の、サンペドロ市場にあるシャーマンショップ。手前の大きなサボテンがサンペドロ)

・サンペドロ

ペルー出発の1ヶ月ほど前のある日、ちいさなお茶会が開かれた。用意された『茶室』は、六畳ほどのちいさな部屋だ。先生は和紙に漢文で聖書の一節を書いたものを壁に貼った。「わたしはあなたに、天国の鍵を授けよう」から始まる一節である。
なかなか気の利いた事をするなあと感心していると、先生はカバンの中から、ちいさな茶筒と器、茶筅などの茶道具一式を取り出してテーブルに並べた。
ちいさな水筒も取り出し、茶筒から抹茶よりは少し粗い粉末を茶器に入れ、熱湯を注ぎ茶筅を使って手際よくお茶をたてる。
この粉末は、サンペドロという南米のサボテンで、これに含まれる「アルカロイド」という物質が幻覚を引き起こすのだという。

「どうぞ」と差し出されたそれを、息を止め一気に飲み干した。抹茶というよりは青汁という感じの味だ。飲めないほどではないけれど美味しいとはとても言えない。
しばらくすると吐き気がしてきたが、朝からなにも食べていないので胃の中は空っぽである。サイケデリックスを摂取する前には12時間ほど絶食してくださいと先生にいわれていた。

たわいもない話をしながら30分ほど待ったが、なんの変化も感じられないのでもう一杯追加した。

さらに30分ほどが経過し、私はなんとなしに先生の用意した『掛軸』を眺めていたら、とても悲しくなって涙が出てきてしまった。

・神さま

私がちいさな頃、母がある宗教に入信したことがあった。
おそらく急に信仰心が芽生えたとかではなくて、母はなんらかのコミュニティに参加したかったのだと思う。父が義務教育より前に子供を外に預けるのを嫌ったため、母は私と年子の姉と、赤ん坊ふたりをかかえて家にひとりぼっちだったのだ。30年も昔の話。SNSも携帯電話もなかった時代だ。

宗教といっても、週に何日か仲間の家に集まって経典を読んだり、たまに大きなところで開かれる集会に参加したりというゆるい感じの集まりだったと思う。子供は静かにしていれば怒られなかったので、私はいつもノートと鉛筆を持っていって絵を描いていた。
教義的なものもほとんど忘れてしまったが、全知全能の偉大な神さまがいて、人間は生まれながらに罪人なので悔い改めなければならないが、その神さまに忠誠を誓って善行を積めば死んだ後楽園へ行ける、だいたいそんな感じだった。

信者の人もみんな慎ましく優しい人たちで、危険な感じは全くなかったのだが父は猛反対した。大声で怒鳴ったり、暴力を振るうこともあった。
私はそんな両親の様子を見るのがとても悲しかったので、父の言うことを聞いてほしいと頼んだこともあったけれど、母の意志は固かった。
「もっと大変な思いをしてる人もいるのよ」というのが母の言い分だった。本当に強い人は暴力を振るったりしない、とも言った。

この宗教騒動がどのように終結したのかよく覚えていない。浮かんでくるのは父が宗教関係の本や冊子を庭で焼いている場面だ。その火を眺めながらなんとなく、「本を焼いてしまっても、頭の中身は消せないのになあ」と思ったのを憶えている。
その後もしばらくは父に隠れて集会に行ったりしていたと思うけれど、弟が生まれたり何度も引越しを繰り返すうちに、次第に宗教のことは忘れ去られていった。

父はこのことがあってから極端に支配的になった。テレビや漫画は禁止され、父が家にいるときは友達と遊ぶこともできなかった。(といっても、家の外に出ない私にはほとんど友達がいなかったのだけれど)

「お母さんは神さまと浮気した」というのが父の言い分だった。宗教への嫌悪感からわざとそんな言い方をしたのだとは思うけれど、私から見たらそれは全く見当違いな感じがした。そこにはなんというか、男女の関係を超越した、厳かで神秘的な空気がたしかにあったからだ。

一方で、周囲からどんなに迫害されても神が与えてくださった試練だ、と感謝するのもなにか釈然としなかった。
神さまが全知全能ならば、なぜ私たちを罪人としてお作りになったのだろう。そしてなぜ、神さまを信じる人が責められるような事がおこるのだろう。
全知全能の神さまならば人間の心を見抜けるはずなのに、なぜ目に見える形で忠誠を表すことをお求めになるのだろう…

子供の頃のいろいろな疑問や不安や悲しい気持ちがまざまざと蘇り、私は沈黙したままさめざめと泣いた。昔のことを思い出すというより、子供に戻ってしまったみたいだった。

先生が立ちあがり、掛軸を壁から外してくれた。

視覚的にはとくに変化を感じなかったが、手足が心地良く痺れ、身体中の力がぬけていた。吐き気はすっかりおさまっていて、体の中心がほのかに冷たい。
体にかかる重力が少ないような気がする。体温と同じ温度の液体に浸かっているような感じだ。
その液体はこの部屋全体に満ちていて、私と先生はその液体を通じて言葉ではない何かで分かり合えているのだと思った。
先生はなにもかもわかっているというように、だまって見守ってくれた。誰とも分かり合えないと思っていた胸の内を受け入れてもらったと感じ、心から癒された。

この体験は想像していたものとずいぶん違っていた。もっとハイになったり、サイケデリックな幾何学模様を見たりするのかと思っていたけれど、それよりずっと穏やかで優しいものだった。このような癒しの時間になるとは全く想像していなかった。
サイケデリックスを心理療法に使う取り組みは以前からなされているのだが、先生もここまでの効果を発揮するとは思っていなかったようだ。
ただ、もちろん誰がやっても同じような事が起こるわけではない。ちゃんとした知識を持った導き手がいて、整った環境と心構えがなければ、とても危険なものにもなりうる。

・両親のこと

父は暴力的で支配的で恐ろしい人だったけれど、父もまた、自分の母親から支配的に育てられたらしい。
社会的には立派だと言われる職業についていて、どちらかというと裕福な暮らしをしていたけれど、父はいつも苛立っていて、自分の人生に絶望し、呪いの言葉を吐き続けていた。

母はそんな父と暮らしているわりに、けっこう無邪気で明るいところがあった。偏見があまりないというか、たぶん少し天然なのかもしれない。
どんな人にも優しくて、家に突然やってくる物売りの人も追い返したりしなかった。薔薇売りのおばあさんからはよく薔薇を買って、いつもその中の一輪を私にくれた。絵描きさんから、きらきらと光る絵の具で描かれた馬の絵を買ったこともある。そういう母でなければ、私は今こんなふうに手作りの物を売って暮らそうとは思わなかっただろう。

父の言うことに正面から反対することはあまりなかったけれど、父が放った呪いの言葉を、あとからそっと解除してくれるのが母だった。
父が
「勉強なんて面白いわけがないんだ。つまらなくても我慢してやるのが勉強だ」
と言えば、
「お母さんは勉強は面白いと思うけどな。だって知らなかった事が知れたり、できなかった事ができるようになるのって素敵じゃない?」
と、後で父がいなくなってから、ちょっぴり自信がなさそうな感じで言うのだ。
私が片耳が聴こえないことで出来損ないだとか耳つんぼとか言われたときは、
「あなたは耳が聴こえない分、他の人にはない素晴らしい能力を神さまが与えてくださってるの」
と、妙に確信に満ちた口調で言い聞かせてくれた。
私はずいぶん陰気な子供だったけれど、いつも母の言う方をすこし信じていたので実は楽天的な性格なのかもしれない。
子供の頃は父が母を支配しているように見えたけれど、本当は父が精神的に母に依存していたのだと思う。

私が大学へ行っている間に2人は離婚してしまった。父とはそれっきりだ。母はもともと持っていた資格を活かして働き、毎日楽しそうだ。昔を嘆くことも父を悪く言うこともない。
母は母の人生を生きているのだから、私も自分の問題は自分で解決しなけりゃなぁ と思うのだった。

先生のお陰でサイケデリックスへの恐怖もかなり和らぎ、私はわくわくしていた。これからペルーに行って、本当に人生が変わるのだという確信に満ちていた。