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2F/当番ノート

天国へ

当番ノート 第38期

2016年の6月に、ペルーへ行って先住民の儀式に参加しました。その経緯を書いてみます。

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・大いなる存在

目の前の途方もなく偉大な存在から目をそらすことができないまま、私はその場に座り込んでいた。

エジプトの壁画に描かれている半人半獣のような姿形をしたその人は、私の事に気づいていないはずはないのに、じっと前を見定めたままだ。

この姿はおそらく、私の主観によって作り上げられた神さま的なもののイメージなのだと思う。
リヨさんの見た精霊は「インディ・ジョーンズにでてくるような」仮面を被っていたと言うし、先生のビジョンにはマリア様が現れたという。
でもなんとなく、それぞれが自分の経験というフィルターを通して違う形を与えているだけで、全ては同じもののような気がした。

唯一であり全て。そうとしか思えなかった。

まっすぐ前を見定めるその顔は真剣で、すこし憂いを帯びているようにもみえた。
なんとなく「きっといいひとだ」という気がして、次第に怖ろしさが消えていく。

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その人は私の方を見なかったし、何か直接メッセージを送ってくることもなかった。
それでも、無視されたとか見放されたという感じはしなかった。
許されたのだ、と思った。きっとはじめから許されていた。ここに私がいることは、この人がなにか気にするような大きなことではないのだ。

大きな安堵に満たされて、全身の力が抜けていく。
体のしびれが少しずつ治っていき、心地良い感覚に変わってくる。
手や足を動かしてみる。生まれたての子供のような気持ち。胸のつかえが全てなくなり、手足を動かせることがとても嬉しいのだ。思わず笑顔になり、私はしばらく手足をぶらぶらと動かすことに夢中になっていた。

体が自由になり外の廊下に出てみると、満天の星空が迎えてくれた。アマゾンの酸素は濃いし、ここは夜中電気の通っていない村なので、星座もわからないくらいたくさんの星が瞬いてみえる。
私は無性に嬉しくなって、空に向かって両手を上げた。
いつになくリズミカルなイカロがセレモニー会場から聴こえてきて、足がステップを踏み始める。

夜空に向かって両手を振り上げ、ひとりで踊っている女…考えてみたら薄気味悪い光景であるが、その時は自分が人間だとか女だとかいう意識はなく、生きている喜びにあふれたひとつの生命体という感覚だった。
間違いなく自分も、木や草や虫や動物や、魚や鳥たちと同じ、この星の一欠片であるのだということがわかる。
そして同時にそれを空からの視点で眺めている自分がいて、手足をぱたぱたさせて喜んでいるそのちいさな生き物を、愛おしくてたまらない気持ちで見ていた。
屈折した自己愛ではなく、自分のことを初めて心から可愛いと思えた。

最初からここが天国だったんだ。

今までずっと、なにか居場所がないような心許なさや疎外感を感じていたけれど、その時も本当はこういうものと自分は繋がっていた。植物が作り出した酸素を吸い、動物や魚からタンパク質をもらって、二酸化炭素を吐き出して、、ずっとずっと循環の中に身を置いてきたのだ。この世界でひとりぼっちになんて、なれようがない…

空が白み始めるまで、渡り廊下に座ったり寝転んだりしながら、ジャングルのあらゆる生命の息吹を感じていた。
廊下を通る人たちの何人かが足を止めて、私と一緒に寝転んで星空を見上げたり、隣に座って口笛を吹いたりした。その口笛に合わせて一緒に体を揺らし、目が合うと微笑みあった。お互いになにも知らず、この先もう会うことのないこの人たちに、他人とは思えない親しみと愛しさが湧いてくる。
そして、ここにくるまでの不思議な縁や、人の親切や家族の理解にふたたび感謝が溢れてきた。
私は自由で、帰るところがある。その信じがたいほどの幸福な事態に。

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・その後のこと

ふたたび“現実”へと帰ってきた私は、また以前のように刺繍をし、服を作ったりして暮らしている。

自分が存在することへの罪悪感のようなものはすっかり消えてしまった。今は逃避としての制作ではなく、楽しみのために作っている。作ることをやめていないのは、やはり作ることが好きなのだと思う。

前は無駄なことをするのに罪悪感があって、採算の取れなさそうな膨大な作業量を必要とするものや、作ってみたいけど需要がなさそうなものは構想段階で諦めることがあったけれど、採算だとか効率についても、あまり考えなくなった。

ときどき、この世界が全て幻なのではないかと思う。
ペルーで見た幻覚の強烈なリアリティのことを思うと、今自分が見て、触れて、感じている一見確かそうなことも、幻覚であったとしても不思議ではない気がするのだ。
それではこの世界がニセモノなのかというとそうは思わない。全てはあの最後の夜に垣間見た大いなる存在と繋がっていて、そこに解釈を与えているのはあくまでも自分、という感じがする。
そして、他の人が見ているこの世界もまた、その人だけの幻なのかも知れず、他人の言葉を必要以上に重く受け止めて、傷ついたり舞い上がったりすることも少なくなった。どんなことも、その人にとっては真実であり、他の人にとっては真実でないかもしれない。

一緒にアマゾンへ行ったりこちゃんは、世界一周したあとタイの屋台の経済について研究するはずだったけれど、研究テーマをサンフランシスコ村に変更し、昨年ふたたびペルーへと旅立った。半年間アマゾンに滞在して現地調査をするのだという。
世界各地の興味深いものをたくさん見た中で、1番気になったのがあのサンフランシスコ村だったらしく、私とたまたまクスコの宿で出会っていなければそんなところへ行くことはなかったのだから本当に人生とはどこでどうなるのかわからない。帰ってきた彼女がなにを語るのかとても楽しみだ。

こうしてここに文章を書いていることも、空から降ってきたように与えられた機会だった。

自分の作品や制作することへの想いなどについてはほとんど語るべきことがなかったので、このような直接本業と関係ない出来事を書くことになったのだけれど、連載していく過程での、主催の朝弘さんやレビューを書いてくださった田山さんとのやり取りの中で、お2人との意外な共通点や深い部分で共感できるところがいくつもあり、やはり不思議な巡り合わせを感じずにはいられなかった。
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書くことを通してふたたびあの不思議な旅を振り返ることができてとても楽しかったです。
さいごに、この旅をテーマに個展をしたときに作った、『宇宙のゆりかご』という作品を載せて終わりにしたいと思います。とても良い機会を与えてくださり本当にありがとうございました。

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juno

juno

刺繍作家
この星のうつくしいものを縫い留めたい

Reviewed by
田山 湖雪

読み終えてほっとしている。
junoさんとはお会いしたことがないのに読み進める中で共通する生い立ちや場所を味わうことができ昔から知ってるかのような、メールでのやりとりをする中で不思議な縁を感じる人となった。

4月に行った車旅、日も暮れて安心できる道の駅をみつけて車を止め寝支度をする。窓にカーテンを取り付け車が自分の部屋に様変わりし寝袋に入る。天井を眺めながらjunoさんの記事をみながら、私ならどんな言葉がそえられるのか。と考えながら眠気が押し寄せて瞼が重くなっていったことが懐かしい。

ペルーでのこと、大きな安堵が自分のすぐ目の前にあるということがjunoさんの軸になっているのかな。それが日々暮らすことや刺繍を介して溢れてきているように思えてくる。手足をぱたぱた動かすこと、寝転んだり口笛に笑ったり、小さなことへの喜びが一針一針にとどまっているから生命力がある作品になっていったんだろう。はじめにjunoさんの作品に対しての生命力と今感じる生命力は変わらないけど、今の方がどこか力強い糸にコシがあるように思えるのはこの連載ややりとりがあったからだと思う。

この出会い、旅を通して自分に必要なことや探っていくことへの忍耐力をつけなくちゃと明確な目標が見えてきた。私こそ感謝を伝えたい。

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