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2F/当番ノート

うつつ

当番ノート 第24期

改札を出てきた僕に気付いたみち子さんは、軽く会釈をしにっこりと笑っていた。
ベージュのダッフルコートに白のスカート、緑と赤の混じったチェックのマフラーという格好の彼女に、ごめん待ったかな、と訊くと、ううん全然だよ、と静かに言った。いかにも初めてのデートだというやり取りを済ませ、新宿から六本木に向かうため地下鉄を目指し歩き出した。
「今日はどんな授業だったの?」
口を切るのは決まって僕のほうだ。
「今日は化学の実験と物理の座学だったの」
「そっか、僕は3限の英語だけだったんだ、すごく楽だったけど」
「そうなんだね」
という彼女は笑ってはいたが、他人行儀さがどこか抜けていない。
しかし、今日24日なら遊べるよと言ったのはみち子さんの方だった。つまりクリスマスイブというやつだ。知り合ったのはつい二ヶ月ほど前。友達からみち子さんを写真で紹介され、週に二回メールのやり取りをしていた。お会いしませんか、と連絡をしたのは12月に入った最初の木曜日だった。

六本木につき地下鉄から降りて、いくらか長いエスカレーターをみち子さんを前にする形で登っていった。身長の低いみち子さんと同じ目線で話ができるのは唯一このときくらいだろう。とは言ってもみち子さんがちゃんと後ろを向いて話してくれることはないのだけれど。
地上に出た瞬間、それは言い方の違いだけでほぼ同時だった。
「わ!めっちゃきれいだね!」
「わ、すごくきれいだね!」
それがとても可笑しくて二人で顔を見合わせ破顔一笑した。
そこには先の先まで続いているけやき坂のけや木が、青と白のライトアップで飾られ、さらに奥に見える東京タワーの光りと重り、きらきらときれいな街の姿になっていた。心の中で、六本木を選んだ自分を褒めたいと思った。

みち子さんは今までにないくらい楽しそうで、一歩先に進み、振り返りながら微笑み「早く行こう!」と言った。みち子さんを動物で例えるならリスだと思う。黒目の大きな瞳に小柄な容姿はとても愛嬌があった。
けやきの下を、すれ違うカップルのように歩いた。
「お腹すいたよね、何か食べたいものある?」
「んー、なんでもいいよ」
「じゃあ、クリスマスイブだし肉でもいい?」
と訊くと、うん、としっかりと目を見て頷いてくれた。
みち子さんが決められないだろうとわかっていた僕はシュラスコのお店を予約していた。
お店はビルの5階にあり、受付で名前を伝えると丁寧に中へ案内された。店内は照明もいい具合に暗く、学生のいないような静かで大人な、感じのよいところだった。豊富な野菜が盛られた大きなバイキングコーナー、そして、テーブルクロスの横に置かれたプレートは表でスタッフがお肉を持ってきて、裏ならやってこないというものだった。僕らはすべてに興奮していた。
みち子さんはモヒート、僕はビールを注文した。さっそくやってきた外人さんのスタッフが50センチ以上ある串に刺さったお肉をその場でスライスし、そっとお皿に載せてくれた。
ごくごくと喉を鳴らすようにビールを飲んだ後
「今日はありがとうみち子さん」
と、その場の雰囲気で自然と言えた。
「ううん、こちらこそありがとう。ほんとに素敵なお店ね」
と、モヒートを一口啜り言った。
お酒のせいか、今日のみち子さんは普段よりも饒舌だった。
「どうしてイブがお祝いかしってる?昔は日没で日付けが変わっていたのだから、本当のクリスマスは今なのよ」
なんてまじめな声で話していた。

外は来たときよりも深く、星一つ見えない空はどこか澄んで見えた。
どうしても、もう一つだけ行きたいところがあるといい向かった先は六本木ヒルズだった。
その中腹にある展望台へ連れて行った。大きなガラス窓の向こうには東京の夜景がこれでもかと言わんばかりに広がり、手前に見える東京タワーの真ん中は時間が来るとハート型に光っていた。
「わ!すごくきれい!!」
と、二度目のみち子さんのその言葉は、けやきで発したときのそれよりも力強かった。
展望スペースにあるバーで、おすすめというウイスキーを二つ買い、空いていたテーブルで飲み、バーの横にいる五人のレースを着た女性の賛美歌を身体中で感じていた。
その間会話はほとんどなかったが、決して嫌な沈黙ではなかった。

帰り道。今日付き合ってくれてありがとう、という意味を込めて用意していた香水を渡した。
みち子さんとの今日を想像しながら何日も考えて買ったそいつは、可愛らしい桃色の瓶で、蓋をあけるとほんのりと甘い匂いがする。たぶんこれが大人な匂いなんだろうな、と思った。
両手で口元を隠しながら、えーほんとに嬉しい、と言って大切に鞄にしまってくれた。
「ごめん私なんのプレゼントもないけど、とっても楽しかったわ、ありがとう」
ううんこちらこそ、と言った僕はきっと悲しい表情をしていたに違いない。
「じゃあ、時間だね。22時で4時間になりますので五万円になります。」
と、みち子さんは申し訳なさそうに言ったが、僕はすっと代金を払った。
「次の仕事があるから行くね。気をつけて帰って。じゃあね」
そう言ったのを最後に、みち子さんは一度もこちらを振り向かなかった。

香水のお返しとして手元に残ったのは、雪よりもはっきりと白い領収書だけだった。

033

【おわり】 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【 雨子の話 4 】

*本編の”うつつ”とは関係のない雨子の話

Yuya Kimura

Yuya Kimura

1993年群馬県出身。少し濃い目の珈琲と文庫本。それと、写真。

Reviewed by
森 勇馬

一昔前の恋愛漫画のような、そんな結末はやってこない。
昨夕のうつつは事実かも知れないと思った。と漱石が書いたのはどんな夜だったのか。
その、急ぎ足の影だけが名残の雪となる。
狂おしいほどに苦しい冷えた空気を吸いながら。

意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

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