CRAZY TANGO DIARY #2 春とロカ

第39期(2018年6月-7月)

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 アルゼンチンタンゴの古い名曲に「Loca(ロカ)」という曲がある。初めて聴いたとき、切なくも華やかで、一抹の滑稽さもあるこの音楽のことをとても美しいと思った。「ロカ」という音がかわいいこともあって、私のこの曲へのイメージはどことなく「少女」じみていた。
 しかしその後、曲名の意味を調べてみてへえっと思った。

 Locaとは、「狂った女性」という意味だったのである。

 *

 狂っている、という言葉から連想するのは、自分自身のことだったりする。 

「未樹はおかしい」

 昔から、耳の穴がこの言葉の形に変わりそうなくらいそう言われてきた。発言元はおもに家族、つまり母・妹・弟だ。もちろん彼らは、私のユーモアセンスを讃えているのではなく、「頭の中および立ちふるまいに、いささか常軌を逸したところが見られますよ」と指摘しているのである。端的に「狂ってる」と言われたことも数知れない。笑い話的に言われることもあれば、至極真面目に忠告として言われることもある。

 特に母は過去30年間、いたって真剣に私のことを心配していた。母に言わせれば、私は何もかもがいちいち過剰なのだという。まず、日常におけるあらゆる挙動のスピードが速すぎ、力みすぎており、乱暴すぎる。本を読みすぎるし、文字を書きすぎるし、字が汚すぎるし、夜になっても眠らなすぎる。光や音に過敏すぎるし、不注意で体をあちこちにぶつけすぎる。この手の「◯◯すぎる」だったらいくらでも出てくる。

 ピンとくる人もいるだろうが、私のこうした傾向は、発達障害の特徴にかなり当てはまる。診断を受けていないので実際にどうかはわからない。社会性や運動能力といった部分にはそういう凸凹さ(多弁、人の話が聞けない、空間認識能力の極端な欠落など)がないため、私も大人になってから病院で「一度検査を受けてみてもいいかも」と言われるまではその可能性を考えもしなかったのだが、言われてみれば「みんなは平気らしいのに自分にはできないこと」はけっこうあった。

 これらの傾向の大半は遺伝で継いだものだ。亡き父もまったく同じような性質の人間であり、ずいぶん生きづらかったらしい。若い頃は「自分は正気でないんじゃないか」と悩み、自ら精神病院に診察を受けに行ったこともあると聞いている。その時は、医者に「本当に頭のおかしい人は、こうやって自分から病院に来たりしない」と言われ追い返されたという。

 2010年代を生きる娘の私は、自分が狂っている可能性よりも、発達障害である可能性の方を多く考える。
 でもわからない。正気と狂気の基準を作るのは社会だ。「障害」が指す範囲が移り変わってきたように、時代ごと、共同体ごとにおいて、「おかしさ」の価値観も違う。もしかしたら私は、今後の社会のあり方によっては「狂人」の枠組みに入っていくのかもしれないし、あるいはすでに入っているのかもしれない。または社会の進化によっては、私こそがグローバルスタンダードな「あるべき普通の人間」ということになるのかもしれない。その辺りは、個人の力では如何ともし難い。

 個人的には、おかしい人間でありたいとも普通の人間でありたいとも思わない。
 私は、私の人生をまっとうできればそれでいい。

 *

 タンゴの話に戻ろう。

 アルゼンチンタンゴをやる。
 そう心に決めた私は、体験レッスンを受けた数日後、とある別のタンゴ教室へと足を運んでいた。最初に行った教室はすごく良かったけれども、いくつか他の教室も見ておこうと考えたのである。

 明るい教室だった。生徒も、10人以上はいただろうか。先生たちも非常に陽気で人当たりがよく、教室の空気全体が楽しい。私はそこでベテランのお姉さまたちに取り囲まれ、賑やかに指導された。こういうのも悪くないと思った。

「小池さんは、タンゴ歴はどのくらいなの。他のダンスはやったことがある?」

 先生にそう尋ねられ、正直に「タンゴは体験レッスンを一回だけ。ダンスは何もやったことがありません」と答えると、先生は大きくうなずいた。

「それは全然悪いことじゃないですよ。タンゴはね、リードである男性の方が、ステップを覚えるのが大変なんです。全部の動きの先導をしなきゃいけないわけだからね。逆に言うと女性は、リードに『なんとなくついていく』ことが可能ぶん、ステップを覚えること自体は比較的楽。でもだからこそ、最初に基本をおろそかにして、変な癖がついて直せなくなることも多いんです。あなたはまだ何も癖がついていない状態なんだから、最初が肝心だと思って練習してね。特に、膝を集めないで、開いて動く癖はつけちゃ駄目、絶対」

 前回の体験レッスンから数えてまだ二回目のレッスンだったが、それでもうなずけるところがあった。ステップの構造をしっかり理解していなくても、男先生のリードがうまいとすでになんとなく動けてしまっていたのである。そういうとき、本当にしっかり意識していないと、自分の脚の角度や重心の場所なんかには神経が行き届かない。そして「とりあえず動けた」という感覚だけが残ってしまうのだ。

 ちなみに「膝を集める」というのは、タンゴの重要な特徴である。アルゼンチンタンゴは主に腰から下の動きで魅せるダンスで、上半身でも積極的に見得を切っていく社交ダンスとはまずここが違うそうだ。もちろんアルゼンチンタンゴの中にも、観客に披露するための「ショータンゴ」というジャンルがあり、こちらには全身を使ったアクロバティックな動きも登場する。ただ、私が習っているような「サロンタンゴ」(ミロンガと呼ばれるパーティにおいて、音楽に合わせて即興で踊るタンゴ)のやり方の場合、基本の動きはそんなに激しくない。
 ペアは互いに脚をなめらかにすれ違わせながら、随所随所で膝から下をぴったり閉じ、一本の蔓草から若い蔓を萌え出すかのようにまた片足を床に這わせていく。その繰り返しでキレをつけるのである。互いに素早く力強く動くことは可能だし、ダンサーの組み合わせによってはかなり派手な踊りにもなるのだが、それ自体が目的にはなり得ないことは確かである。パッと見の動きが大きくないからこそ、膝を集める、脚をまっすぐに伸ばすなどの小さな動きが効いてくる。

 習い始めが肝心という言葉に、生来雑な人間である私はひやりとした。どうせ習うのだからきちんと習得したい。時間はかかっても、基本を大事に進めていこうと気を引き締める。

 *

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 さて、私にとって印象深い出来事がそのあとに起こった。

 レッスン後に何人かの女性たちが、一緒に食事をしないかと誘ってくれたのである。皆私よりずっと年上の、身なりの良い奥様風の人たちだった。その後に予定はなかったので喜んで誘いにのり、私たちは教室の近くにあるイタリアンレストランに入った。
 タンゴの話をいろいろ聞けるに違いない。席に着きながら私はそう期待していた。

 ところがどっこいだ。

「ねえ、なんで今日もAさん来てるの!?」

 席に着くなり奥様たちは、レッスンに来ていた一人の生徒に対しての憤りをぶちまけはじめたのである。なんでも、先生含め教室の人々ほとんどがその人のことを苦手としているのだという。

「ほんと、あの人が入ってきた瞬間絶望したわ。あの人本当に人の話聞かないし。先生たちもイライラするから最悪」

 私はAさんのことを思い出した。たしかに、人との距離感がうまくつかめないタイプなのかな、と思う挙動は私も目撃している。ただ全体的に言えば、私の目に「すごく変な人」として映るタイプの人物ではない。
 それでもAさんは、テーブルについた数人の女性たちにとっては、耐え難いくらいの”ノイジー”な存在らしかった。

 空気が読めない、先生の指示に従わない、意味のわからないことを言う、ウザい、キモい、来ないでほしい。女性たちの口から次々にそんな言葉が飛び出す。私は黙りこくり、ひたすら食べ物を口に詰め込んでいた。ろくに味がしない。

 そのうち、女性たちの一人が大声で言った。

「ほんとにもお、発達障害かっての!!」

 途端、全員がけたたましく笑った。
 哄笑のなか、私はひとり「もののけ姫」のコダマのような顔になっていた。

 陰口は嫌いです、などと良い子ちゃんぶるつもりはない。私だって、嫌いな人間についてあれこれ言うことはいくらでもある。罵ることだってある。ただ、人種や性的指向と同じく、ある種の病気や障害を、嘲笑の手立てにすることは絶対にない。発達障害かよ、という言葉をきっかけとする大笑いは、私の胸にはモリのように刺さった。

 思い出したのは子どもの頃のことだ。Aさんが言われているようなことを、私もかつて級友たちに言われていたのだ。ウザい、キモい、出しゃばらないでほしいと。
 何が原因なのかはいつもよくわからなかった。一人で勝手に行動するところが「ウザ」かったのかもしれないし、無自覚に何か失礼なことをしていたのかもしれない。

 滑稽なのは、そういった決定的な言葉を見聞きするまで、自分がその人たちに嫌われたり憎まれたりしているということに、とんと気づかなかったということだ。
 
 昔からそうだ。幼稚園のときは、何人かの女子から嫌われ軽くいじめられていたのに気づかなかった。彼女らは私のあまりの鈍さに腹を立て、わざわざ私を園庭に呼び出して「あたしたち、みきちゃんに意地悪してるんだよ」と丁寧に説明をするはめになった。また小学生のときも、級友から「あのねえ、◯◯ちゃんは小池さんのことが嫌いなんだから話しかけないで」と忠告を受けた。学生の頃は、同じ学校の女子がmixi日記で、わかる人には私のことだとわかるように「殺してやりたい」と書いていた。毎度、そういう決定的な一言を言われるまで、自分に向けられた感情には気づいていなかった。

 気づけない人間でごめん。

 いつもそう思った。私は、嫌われたり、いじめられたりすること自体は平気だった。それよりも、「それに気づけない自分の鈍さ」を惨めに感じることの方が多かった。私がこんなんでなければ、「普通の人」ならもっと早く気付けたのだろうと。Aさんもそういうタイプなのかもしれない。

 たぶん女性陣は、さほどひどいことを言っているつもりもなかったのだと思う。レッスン中に彼女を露骨にいじめるような真似はしていなかった。もしくは、私がたまたまそういう場面を見なかっただけで、Aさんは普段、本当に周りに迷惑をかけまくっている存在なのかもしれない。だから、このやり取りだけを理由に、彼女たちを悪人だと裁くことは私にはできなかった。

 しかし実際がどうであれ、私がこの教室に通うのは無理だと思った。
 もしこの食事会に参加しなかったら、他の教室も見た上で、最終的に通う先をここにしていたかもしれない。そこで私の何か変なところが周りのレッスン生をいらだたせ、嫌われたとしても、私のことだから気づかずに通い続けたかもしれない。でももう駄目だ。だってもう、甲高い笑い声を聞いてしまったんだから。それが私に、「気づかなくてすみませんでした」というあの感覚を思い出させてしまったのだから。

 私の方がおかしいのかもしれない。
 おかしい人間が行っていい場所は少ないのかもしれない。
 変わり者、凸凹人間が珍しくない出版業界ならともかく、お金と時間にそこそこ余裕のある人達が集まる、趣味のダンスレッスンの世界なんて、私みたいなのが来ちゃいけないのかもしれない。
  
 ああ、でも私はタンゴをもう少し踊ってみたい。

 終わったばかりなのに、私はもう一度タンゴの練習をしたくなった。そして同時に、最初に行った教室の、おっとりした先生たちのことが急激に懐かしくなっていた。女先生のきれいなふくらはぎの曲線、男先生の手のあたたかさ。

 もちろんあの先生たちだって、私の目に映らないだけで、もしかしたら裏ではとんでもないことを言いあっているのかもしれない。二人で話しあっていなくても、それぞれの心の中に、それぞれの闇はあるかもしれない。きっとあるだろう。でもかまわない。私はまだ、あの二人との関係性において何も気づいてはいない。それが全てだ。
 人間の本性なんて誰にもわからないのだ。たとえそれが一度しか会ったことのない関係であっても、毎日いっしょに目覚めるような関係であっても。

 女たちの話は続く。

「ほら、今春じゃない。春になると、ちょっとアレな人たちは行動が活発化しちゃうでしょ。だからAさんみたいな人も動き回るのよ……」

 そう、今は4月で、春なのだった。
 私もまた、活発化している「ちょっとアレな人たち」のひとりなのかもしれない。だからダンスなんかしようとしているのかもしれない。

 明日、この間行った教室にもう一度行こう。

 フォークをなめながら、私はそう考えていた。

 

 
今日のおまけミキタンゴ

 というわけで、今日ご紹介する曲は「Loca(ロカ)」。日本で名曲「しゃぼん玉」が生まれた1922年、マヌエル・ホベスによって作曲された曲です。作詞はアントニオ・マルティネス・ビエルゴル。

 上で書いた通り、「Loca」というのは「正気でない女性」という意味。歌詞もそのような内容で、日がなワインに浸かり、男をたぶらかし、享楽の限りを貪り尽くしてきた……そんな業深き女性の人生を歌う一曲です。出だしがかっこいい。

 せっかくなのでダンス動画でご紹介しましょう。

 踊っているのはフェルナンド・グラシアとソル・セラキデス。グラシアは2007年のタンゴ世界大会ステージ部門チャンピオン。すごく有名な、ショータンゴが得意な二人なんだそうです。

 この曲はタンゴの中でも知名度が高く、華やかな印象からか踊る人たちにも人気みたいです。私が見に行ったタンゴダンスの発表会でも、この曲を選択している人が二人いました。
 そのうちの一人宛の、講師からのメッセージ(ダンスの前に司会者が読み上げてくれる)がよかった。

「タンゴの世界は、ロカの存在を肯定しています……」

 狂った男女、アル中、貧乏人、恋敵を殺そうとする男、老いさらばえて見る影もなくなった元美女。明るいポップミュージックの中では「いないこと」にされがちなそういった人々ーー端的に言えば「底辺」と見なされる人々の嘆きや苦しみの言葉も、タンゴ音楽では主題になり得ます。というかそれが多い。なぜならタンゴは、実際にそうした下町的な人々の価値観や文化が生み育てていった音楽だからです。そういうところを興味深く思いながら聴いています。