CRAZY TANGO DIARY #8 ミロンガで会いましょう

第39期(2018年6月-7月)

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 抱きしめられるのが、恐ろしく下手だった。

 下手ぶりを説明しようにもサンプルが異様に少ない人生なわけだが、とりあえず初めての恋人から「第1回・抱擁」をしかけられたときも、私は非常に緊張していた。
 どのくらい緊張していたかというと、向こうが私のあまりのガチゴチぶりに、腕を離して「ウーン、こんなに固くなってる人は初めて見た……」と唸っていたほどであった。

 私の記憶では、交際から2、3ヶ月経ってもまだガチゴチしていたと思う。相手が近寄ってきたときに私が取るアクションは大抵、黙って直立不動になっているとか、ただじっと動かないでいるとかいった「無抵抗を示す」に属するものだった。犬が仰向けになり、尻尾を足の間に挟んでじっとしているときのようなものである。

 要は私の体は、「抱きしめられる」ということを、「自由を奪われ、いいようにされること」だと認識していたのだ。そして、相手が望んでいるのも私が無抵抗でいることだろうと思って、ただの地蔵になっていたのである。

 しかし、冒頭で私は「下手だった」と過去形で書いた。
 そうです。今は下手ではないと思う。上手であるとまでは言えないが、地蔵でいることはやめた。なぜなら、地蔵にはタンゴが踊れないからである。

 タンゴは必ず、抱擁……アブラッソから始まる。二人がお互いの体に手を回さなければ、どれだけ音楽が流れていても踊りは始まらない。二人の世界は生まれない。

 前回報告した初めてのミロンガに行ってから、私のタンゴ熱はヒートアップし続けている。あれから別のミロンガにも出てみた。何回も何回も、別の男性相手に踊った。そのおかげで、「抱きしめあう」ことへの抵抗はだいぶなくなってきた。

 初めての交際で右往左往していた頃は、「第20回・抱擁」くらいまで突入してもまだ「うっ……(地蔵)」となっていた。
 しかし、タンゴのレッスンに20回通った今、男性と向き合って手を取り合うことは、私にとって(さすがに自然とは言い難いが)「楽しい」ことになりつつある。

 そして、わかってきた。
 なぜ私がこれまで、あんなにガチゴチだったのか。
 他人と親密な状態で一緒にいるということが、どうしてあんなに悩ましいことだったのか。

 鍵は、やっぱりアブラッソにあったのだ。
 
 *

 アブラッソについては、忘れられない話がある。
 私の通っている教室の先生が話してくれた体験談だ。

 先生カップルは昔、ベストなアブラッソの模索にわりと苦労していたらしい。でもそんなときふたりは、ブエノスアイレスでの修行中に、とあるタンゲーロにすばらしい助言をもらったのだという。

 彼は背の低い、丸々と太ったアルゼンチン人のお爺ちゃんだった。彼は、アブラッソがうまくいかない男先生をちょいちょいと手招きしてこう言った。

「きみ、私を抱きしめなさい」

 「??」となりながらも、男先生は彼を正面から抱きしめた。彼はでっぷり太っているので、丸い着ぐるみに抱きつくような形になった。すると、お爺ちゃん先生は続けてこう言ったのである。

「今のように彼女と組んでみなさい」

 相手をまあるく、ただ抱きしめにいくように組む。
 お爺ちゃん先生が指導したのはそれだけ。

 しかしその通りにしたところ、なんとばっちりいいポジションになったのだというのである。それ以来、二人はアブラッソには苦労しなくなったらしい。

「これは、私にとってすごく大きな経験だったんですよね」

 男先生はそう言っていた。「丸く抱きしめにいく」アブラッソの説明のために、大きなゴムボールを両手に抱えながら。

 ただ抱きしめに行けばいい。

 なんてシンプルな、あっけなくさえある結論だろう。
 でも思うに、ありとあらゆる悩みの答えは、突き詰めればいつもこのくらいシンプルなのだろう。
 答えがわかっていてもなぜか同じところを歩き回るのが人間というものだけど、いつかはそのループを抜けて、「なあんだ、こんなことでよかったのか」と思う領域に足を踏み出すこともある。

 目の前の相手と一番しっくりくる形で組む、というこの場合の課題の答えは、角度をどうするとか、手の位置をどうするということではなく、「相手を抱きしめにいく」ということだったのである。

 *

 この話、実を言うと、聞いた直後はそんなにピンときていなかった。そうかそうか、と思ったくらいだった。
 でも、ミロンガで踊ってみて、先生たちがそこにたどり着くまでどうして大変だったのか、どうして老タンゲーロが彼らにそのアドバイスをしたのか、少しわかった。

 抱きしめるように組んでくる男性と、あまり出会わないのである。

 まだド下手くその初心者のくせにこんなことを考えているのも生意気かもしれないが、組んでみて、相手のリードに対し「なんか窮屈だな」「すごい引っ張り方だな」と思うことはよくある。

 普段、男先生と踊っているときにはまったく感じない不快感、ただ右手と肩下をつかまれているだけ、という感覚が私には不思議だった。力のかけ方とか、手のポジションを意識できていないんだなーと思ったりしていた(もちろん向こうも私のフォローに対してそう思っているんだろうけど)。
 でも、何度か踊ったのちにわかったのである。「そうか、抱きしめにきていないんだ!」と。
 力のかけ方や手のポジションにだけとらわれているから、逆に手の内に力が入って、相手を引っ張り込んでしまうのだ。

 そして、同じことはもちろん私の方にも言える。
 相手が組みにきたとき、ただ相手の出してきた左手に右手を乗せ、相手の背中に手を回すだけでは、抱きしめ合う形にならない。どれだけ違いがないように思えても、丸く抱きしめにいくつもりで相手に向かっていったときとそうでないときとでは、踊ったときの感覚にかなりの違いが出るのである。

 これは、実感してみると面白かった。

 *

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 ある日のミロンガで、私はかなり強引なリードをしてくる年配の男性と踊った。
 タンゴ歴は長いらしく、いろんなステップをつかいこなしてくる。私が初心者なのを見て嬉しくなったらしく、踊りながら「ご指導」もしてくれた(これは本来はマナー違反)。しかし、これがちっとも楽しくないのだ。力任せに振り回してくるので相手のリードがくるたびに緊張するし、背中や手首が痛くなる。彼と3曲踊ったあと、私はすっかり疲れてしまった。

 そのときに思い出したのが、その前のミロンガで踊った別の男性のことだった。彼は、たぶんそんなに上手い人ではなかった。ステップも、基本のステップとヒーロ、メディオヒーロ、パラーダくらいしか使っていなかったと思う。ところが、彼とのダンスは楽しかったのである。音楽を聴く余裕もあったし、笑顔で踊れた。終わったあとも、二人で楽しく会話できた。

 その違いはなんだろうと考えると、やっぱり「相手を丸く抱けているか」だと思うのである。

 もちろん、何度も書いている通り私は初心者なので、熟練者たちの感覚がどうなのかはわからない。私の感じ方が見当違いの可能性もあるし、もう一年くらい練習したらまた違う感じ方をしているかもしれない。あと今さらなことを書くけれど、タンゴのメソッドはかなりたくさんあるので、私が見ているもの、習っているものが唯一無二の正解というわけでもない。

 ただ、いまの段階で言えることとして、私にとってこの違い—抱きしめられているのか、そうでないのか、抱きしめにいけているのか、そうでないのか—は、本当に大きいらしい。少なくとも、私の快不快を分けている”何か”を表現するとき、この概念が使えるのはたしかだ。

 *

 そこからまた、私は自分の人生のことを考える。

 いままでに私は、誰かを「ただ抱きしめに」いけたことがあっただろうか。

 そう考えてみると、「できていなかった」という結論にどうしてもたどり着いてしまうのである。元恋人に対してすら、それができていたか考えるとどうも怪しい。いわんや、恋人にならなかった距離感の人たちにおいてをや。

 あなたが抱きしめたいなら好きにすればいいけど、私はどうしたらいいかわかりません。

 私はいつもそんな態度でいなかったか?
 そしてそれは、私の本当に望む、本当にしたい態度だったのだろうか。

 今はこう思う。
 私が本当にしたかったのは、「私の方から、無邪気に抱きしめにいく」ことだったのでは? と。

 なぜそれをしたいのか。
 そうした方が、一緒に踊りやすいから。

 つまり、そうした方が楽しいから。

 *

 教室の男先生は、大きなゴムボールを抱えながら「イメージとしては、こういう丸を腕で維持しながら踊るんです」と言っていた。
 女先生も言った。

「よしよしするときみたいに、優しく相手を抱っこするの。よーし、よしって。そのとき、腕の中は丸くなっているでしょ。お互い、その丸のなかに相手を入れるの」

 ふたりはそれを実演してみせてくれた。といっても、それは彼らが毎日、私たちレッスン生の前でやっていることである。優しく、丸く、自分の腕でつくる輪のなかに相手を入れる。女性は男性のつくる円のなかで踊り、男性は女性のつくる円のなかで自分の軸を保つ。体格差があろうがなかろうが、それができればふたりは踊れる。

 ふたつの円を重ねてできたその丸い世界にこそ、タンゴの蜜は溢れ出る。

 タンゴダンスは、外から見て美しい。でもきっと、いちばん美しいものはふたりの間の、あの丸い場所にある。それはその時のペアの組み合わせ、その時のダンスでしか立ち現れない幻の聖域だ。『モモ』の主人公モモが見た「時間の花」のように一瞬一瞬で移ろい変わる、つかみどころのない、踊るふたりにとっての”芯”である。

 それをつかみにいくのではなく、つくりに行くことが、人と抱き合ったり、向かい合ったりするということなのかもしれない。

 人間の喜怒哀楽を、生死を、美しい面と醜い面の両方を歌うタンゴ音楽は、その営みを助けてくれる。向き合っているものが決してただきれいなだけではない生き物であることを口うるさく教えてくれながら、それでも踊ることを肯定してくれる。愛欲におぼれることも、生にしがみつくことも、死に向かうこともすべてメロディに取り込んでくれる。

 だとしたら、タンゴを聴けて、タンゴを踊れるって素敵なことだ。
 私の人生にとっての、ものすごく大きな救いだ。
 
 
 一人の人間と、親密な状態を維持しながら一緒に生きていくとはどういうことなのか?
 
 タンゴを始めた頃、そんな問いを私は持った。

 その完全な答えは出ない。
 でもその答えがどこにあるかはもうわかっている。

 目の前の相手をただ抱きしめにいった、その先に待っているのだ。
 
 
 
 タンゴはなぜこうまで私達の心をひきつけるのでありましょうか。
 それはタンゴが人生を歌った音楽だからでありましょう。
 そして人生とは一篇のタンゴだからでありましょう。
 (高山正彦『増訂タンゴ随筆』より)

 
 
***
 

今日のおまけミキタンゴ

 というわけで、好き勝手書いてきたこのミキタンゴコーナーも今回でおしまい。
 最後は、ミロンガの「締めの曲」として流されることも多い超有名曲、「ラ・クンパルシータ」を。1916年、約100年も前にウルグアイの学生によって作曲された曲ですが(ブレイクしたのは、その後パスクアル・コントゥルシが全然違う詞をつけてから)、今もタンゴの名曲中の名曲として不動の地位にいます。2017年アルゼンチンタンゴ世界選手権ステージ部門1位、Axel Arakaki&Agostina Tarchiniのダンスでご覧ください。


 
 わたくしはまだまだタンゴを続けます。へっぽこ練習記録はブログの方でも綴っていますので、今後もお付き合いいただける方はこちらもご覧ください。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。いつか、どこかのミロンガでお会いしましょう。