父と競馬とプルースト

第42期(2018年12月-2019年1月)

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私の家族はフィンランドの北部に住んでいるが、大工である父はクリスマスまで首都圏で働くことになった。初めて遊びに来た時、私の部屋に灯りが殆どないのを見て、今週はシーリングライトを二つ持って来た。

父がライトを天井に取り付けた後は、オーブンで焼いた冷凍ピザを食べながら私の新しい仕事について話す。オートキャドのライセンスが高いと思う父は、最早プログラマーとして働き出した私がCADソフトウェアを作ってくれないかと聞くが、今の私にそれほど複雑ばものが一人で作れる訳がない。父と話す時は、このように仕事や、ちょっとした日常的な出来事について話すことが多い。そしてもう一つよく出てくるテーマは、競馬である。今日も食べ終わってから競馬を観ることにする。

既に小学生の頃から、父と一緒に1着になる馬を予想して、ちょっとお金を賭けて、競馬を観てきた。それが幼い私にとって、週末の一番の楽しみだった。競馬自体も賭け事も好きだったが、ボーナスとして、馬の名前と血統表が、私に何か良く言葉にできないことを連想させた。その何かはかなり曖昧で、そして馬ごとに違うものであったが、とにかくそのメカニズムのおかげで、種牡馬カタログ(ある時期、家にそう言うものもあった)を読むだけでも楽しかった。

おかしい子供と思われるかも知れないが、大人になってプルーストの『失われた時を求めて』を読んだら、主人公が似たような経験ついて語る部分を見付けた。種牡馬カタログではなく、確かに駅名の話だったが、私の場合もこの現象は馬に限られたものではない。『失われた時を求めて』は今手元にないので、具体的に何と書いてあったのか確認できないのだが、主人公が電車の時刻表か何かを見て、そこに記載された駅名は彼にとってただの地理的表示でなく、様々なことを連想させる魔法の言葉のようであった。もちろん、言葉は様々な意味やイメージを内包しているから、これは誰でもある程度起きることであるかも知れない。でもあの小説を読んで、そこに出馬表を見る時に働く私の頭の仕組みがパーフェクトに描かれている気がした。

今ビールを飲んでいる父には、こんな話をしない。父は、プルーストを読まない。短いニュースや建築関係のテクニカルなもの以外には、ほとんど何も読まない。

時々、本当にアカデミックな人の話を聞いていると、父が私の頭の中で呟いている気がする。
一応面白い話であったとしても、「この人、どれだけ現実から離れているか。よくこんなナンセンスで給料をもらっているんだな」と言う父の声が聞こえてたまらない。本当は、父がそんなことを言うのを一度も聞いたことがないのに。

今日の競馬で、「Northern Trick」という馬に賭けて10ユーロを勝つ。大したものではないが、ちょっと嬉しい。競馬が終わると、平日いつも早起きする父が眠くなるので、ソファベットをベッドにして、電気を消す。私も眠いはずなのに、ベッドルームの窓から見える青いクリスマスライトを見て、中々眠れない。

私が書いている文章は、現実からどれだけ離れているのだろうか。