スラム匆々

第43期

どうもどうも、
そにっくなーす a.k.a. ひのはらみめいです。
食わず嫌いはないですが負けず嫌いで有名です。

先日、モグテレビさんのポエトリースラッシュというインターネット番組で3人で戦うスラムに出てぼろ負けしてしまいました。

ポエトリースラム(持ってきた自作の詩をルールに則って各自朗読し聴衆に点数をつけてもらい勝敗を決める試合のこと)にて負けるたびになんでこんな嫌な思いや辛い思いしてまで詩のライブとか朗読とかやってるんだろうなって思ってしまいます。

負けると悔しいし、やらなきゃよかった、くらいまで思うし、負けた詩のことは嫌いになるし、とにかく落ち込んでしまって精神衛生上よろしくない。笑。
情けないし、好かれる詩を書けない自分や好かれる表現ができなかった自分に価値を見出せず憂鬱になったりします。
自己否定祭りの始まりです。
詩が負けただけなのに、自分の人格全てが負けてしまって不要になったみたいな気持ちになってしまいます。
詩は自由だし、自由なものを好きになるのも興味持てないのも自由だし、好きとか嫌いとか合うとか合わないとかそういうのを認めてこそ文化なんだということはわかってはいるのです。どんな人がいてもいい、だけど投票されるかどうかと居ていいことは別。
評価されるかどうかと存在していいかどうかは別。
存在していいとか表現やっていいとかいけないとかは他の人たちには決められないはずなのです。
なのにしばしば人からの評価が低いと存在することや表現すること自体を許されなかったみたいな気持ちになってしまうのは一体なんなんでしょうね。
存在することややり続けることを決めるのは自分自身なのにね。

なんのためにやっているかを考えろと、
心の中の吉田松陰が言います。
一回失敗したり負けたりしたくらいでやめないで、と吉田松陰は繰り返します。
超訳吉田松陰です。

たとえばこれが、日曜日とかにやる趣味の草野球とかだったら、負けたーって悔しくはなるけど、存在がどうのとか、ここまでにはならないだろうなあと思うのです。
だけど、詩のスラムでわたしがここまで苦しくなるのは、
わたしにとっては詩が自分の心から生まれた自分の分身みたいなもので、自分の考え、自分の価値観、自分の脳内、それら全てがあらわれているものだからなのかも。
それで、いったん負けると心や脳や価値観や、自分の分身、ひいては自分の全てを否定されたような被害妄想に至ってしまうのかもしれません。

楽しめばいい、結果なんかどうでもいいと、心の中の吉田松陰が言います。(最近ハマっているのです)
続けるなら決心が必要です。行動も愛情も決心が生み出すものです。

さて、
なんのために?だれのために?

わたしは個人的には、人のために芸術が役に立つとはあまり考えていません。
この音楽や映画に救われた! とかはあるけれど、救うために表現する人もいると思うけど、そのためのものとして、ツールとして使うのは違うのかなあとか思うわけです。
むしろ、なんの役にも立たないものが人生を豊かにするとは思いませんか。
効率、能率、必要最低限、ネセサリーと義務のみの人生なんて、きっと窮屈でしょう。
誰かが言っていた、「役に立たないものは愛するほかにないものだから」ということですね。
詩も音楽も、芸術の全ては人を豊かにするだけの、いわばおまけのようなものです。ないと死ぬわけでもないし、ごはんや棲み家の重要性と比べたら比べ物にならないくらい、生存そのものには必要のないものです。

役に立つ詩、
好きになれそうな詩、
人気の詩、
わかりやすい詩、
泣ける詩、
そればっかりでは面白くない。

詩人の患者さんが、以前、「人を呪う詩を書くことや嫌なことをえがいた詩は自分を汚すことになるから」と言っていました。
たしかに言霊ってあります。汚い言葉ばかり、傷つけるような言葉ばかり吐いていると自分は汚れていく気がします。綺麗かどうかというとわかんないですが。笑。

自由さを、ダイバーシティを肯定するなら、ダークサイドの存在も肯定せねばなりません。たぶん。詩は自由だからむちゃくちゃやっていいんだと思います。

なんのために?だれのために?

この答えはまだ出ていません。
前にも自分のブログで同じような記事を書いたような気がしますし、連載でも書いた気がします。
まだわからない。
しかも変わるかもしれない。
なんのためにが揺らがない詩人さんいたら、教えてもらいたい。
むしろみんなは揺らがないから強く立っていられるのだろうか?

なんかのためにやる、と考えてやる行動と、なんとなくやって楽しい時もあって続けていく行動とだったら、
ねえ、松陰先生、
わたし的には、後者の方が強いんじゃないかと思いますよ。