一文無しへまっしぐら~アンダンテ・ホステル~ショルティ指揮国際コンクール

第43期

音楽家を志そうと決心した時に、私は人生の森に自ら迷い込んだ。

勤めていた高校教諭の職を辞し、退職金を当てにして、欧州音楽留学、そしてリスト音楽院大学院修了まで辿り着くことができた。しかしその頃までには、10年働いて貯めた留学資金を使い果たそうとしていた。

お金が無いので、もちろんこれから住む家も無い。4年間の留学生活で連れ添ったピアノも置く場所が無く、泣く泣く知人に譲った。残ったのは大量のオーケストラの楽譜達だけだった。

そんな時、ブダペストで日本食レストランと日本人ホステルを経営する峯田 慶治さん(通称よしさん)と出会う。よしさんの友人は彼のことを「Mr.お人好し」と呼ぶ。

よしさんは私に、三畳一間のホステルの一角と食料を提供してくださった。「住む所と食べることは心配するな、音楽にだけ集中しろ。」私はその言葉だけを信じて、人生を突き進んだ。

私は、1ヵ月後にハンガリーで行われる、Maestro Solti International Conducting Competition(ショルティ国際指揮コンクール)の本選一次に出場することが決まっていたので、そこで使われる楽譜と必要最小限の衣服だけをダンボールに詰め込み、日本人宿アンダンテ・ホステルでの居候生活が始まった。

ここで少しアンダンテ・ホステルを紹介したい。主に世界一周中の旅人と、欧州旅行中の老若男女が集う宿である。利用者は通常は2泊3日から1週間程度滞在するが、1ヶ月以上長期滞在する変人もいる(私は半年以上滞在したので超変人)。部屋は共有スペースが中央に位置し、共有スペースの左右に男性部屋と女声部屋が別れ、それぞれベッド約8つずつ。そして私が居候したその一角はプライベートが幸運にも守られていた。…といっても女子部屋の天井部分をベニヤ板で間切ったその部屋は、夜な夜な女子トークがたまに聞こえてくる、そして私の生活音も女子部屋に聞こえていたはずである。

アンダンテでの旅人の生活を一言でたとえると「遅い」。皆、寝るのも遅いし、起きるのも遅いのだが、管理人さんだけなぜか早い。利用者に変人が混ざると、毎晩のように酒盛りが共有スペースで開催され、皆、明け方に寝静まる。それと同時に管理人さんが朝の掃除を開始する。そう、眠らない宿なのである。

「アンダンテ」とはイタリア語である。音楽用語でも頻繁に使用され、「程よい速さで」という意味があるが、アンダンテ・ホステルで程よい速さで生活している人はいない、「センプレ・アダージョ(常に遅い)・ホステル」なのである。ハンガリー・ブダペストにお越しの際は、ぜひ皆様に体験していただきたい。

コンクール本選一次までの1ヶ月間、午前中は日本食レストランに置いてあるアップライトピアノを借りて楽譜を読み、日中はホステルの部屋で譜読みを続け、夕方は語学学校へ。夕食後は夜の12時までリスト音楽院の練習室を借りて、コンクールの準備に勤しんだ。

この究極な環境に対して、天は我に味方した。私はコンクール本選一次を抜け、セミファイナルへ進むことができる15名の中に選ばれた。アドレナリンは私に疲れを忘れさせた。リスト音楽院の仲間達もギリギリまで私の練習に付き合ってくれ、またしても奇跡が起こる。そう、ファイナリストに選ばれたのである。

そして、ファイナル・ラウンドまでの準備期間は2ヶ月(長い!)、この2ヶ月が私にとって、忘れることができない地獄の試練になる。


(ハンガリーの国営放送で、毎週、演奏やリハーサルがドキュメンタリーで放送された。)

私は国際コンクールという舞台に自分自身が立っていることに舞上がり、我を失い、この2ヶ月間の歩み方を見誤る。そしてセミファイナル終了後に、今まで無理を続けていた体調にも異変が生じた。咳がとまらず、常に体が火照っていたかと思えば、その後には悪寒がやってきた。何を食べても味がしない。

その内に、今度は心にも余裕が無くなる。人と会いたくない。でも周囲の期待や応援に応えたい。そんな中アンダンテ・ホステルで出会った仲間達が、大学生でハンガリーへ留学中だった鈴木 彪太君を中心に応援団を結成してくれた。ファイナル・ラウンドが行われるハンガリー・ペーチ市まで35名ほど、ヨーロッパ各地から仲間が駆けつけてくれるという。

今、振り返っても本当にありがたく、一生忘れらない出来事であったと同時に、自分ひとりで全てをこなしきれなくなり、感情がコントロールできなくなった。この頃、誰から何を声を掛けられても、「地獄です」と返答していたと思う。
 
不安をかき消すためには、楽譜を読むしかない。ひとつでも多く覚えて、ミスを少なくする。絶対にミスしない。そう自分に言い聞かせて、ファイナルを迎える。

結果は6人中5位。審査員長の言葉が全てを物語っていた。

「君はまるで侍のように無心に音楽に取り組み、誰よりも曲を理解していたね。でも、音楽は敵じゃないよ。もっと音楽に寄り添って…そしてたくさんの経験を積みなさい」。

このかけがえのない金言と共にこれからの音楽人生を歩んでいこうと心に誓った。

コンクール後は、今まで自分のライフワークにしていたバルトークの楽譜を読むことも、半年ほど恐くてできなかった。そして、コンクールの副賞としてファイナル・ラウンドでも指揮をしたバルトークの「舞踏組曲」という曲を再度演奏する機会をいただいた。が、コンサート中に、コンクールのトラウマからか、頭の中は動いているのだけれども、体がいうことをきかない。演奏のクライマックスの場面で顔が青ざめている私の異変に気づいたトランペット奏者が助け舟を出してくれて、事なきを得たが、こんなことは生まれて初めての経験だった。


(2017年12月15日 指揮コンクール・ファイナル Bartok:舞踏組曲)
 
「心技体」。指揮の経験を通して、音楽との向き合い方、日々の生活の中で何を大切にして生きていかなければならないのか。私達、指揮者を志す者は、楽譜やオーケストラから学ばなければならない。
 
そして現在…。2018年12月に国際コンクールを終えて1年が経ち、ようやく当時を振り返ることができるようになってきたと思う。

今は、来年度の語学学校の学費を稼ぐために、早朝日本食レストランで掃除などの手伝いをし、午後は週に3回、日本の歌のミニコンサートを同じく日本食レストランで歌っている。

普段はピアノを弾いてオーケストラの楽譜とにらめっこしている指揮者の卵にとって、この歌のコンサートは、本当にありがたい。お客さんとの空間を共有し、伴奏をしてくれるピアニストと音楽を通して対話する。この経験が必ず、指揮台の上でも役に立つと信じて、取り組んでいる。

午前中は引き続き、ハンガリー語の語学学校へ通っている。来月3月から6月は指揮の仕事をいくつかいただいているので、これからはその準備をしていくことになる。

何がいいたいか、というと、貧乏だけど幸せだということだ。

次回は、ハンガリー民謡との出会いと、日本のわらべ歌や童謡への再吟味、そして、ハンガリー語にまつわるエピソードなどを話していきたい。