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2F/当番ノート

ドナウ川の流れる街

当番ノート 第43期

ドナウ川の流れる街、ハンガリー・ブダペストで、私は音楽の勉強を続けている。

ハンガリーとの出会いはかれこれ24年前。高校時代に所属していた吹奏楽部で、ハンガリーへ演奏旅行に訪れたことが契機だった。デブレツェン、ケチケメート、そしてブダペスト。ハンガリー人のおおらかな人柄に惹かれると同時に、いつかここで音楽を勉強したいと夢を描く自分がいた。

高校卒業時、幼馴染みで高校も一緒に楽器を演奏していた仲間のひとり、深堀美穂さんが18歳という若さで白血病で他界してしまう。その白血病と闘っていた彼女から、生前、1通の手紙をもらった。「私には夢があるの。何年かかってもいいから大学に進学する。そして学校の先生になるの」。その手紙の中身は、夢にあふれていた。私は彼女の遺志を継ぎ、教育学部のある大学へ進学し、地元千葉県で10年間の教員生活を送った。元気でやんちゃな高校生との生活は、とても魅力的かつスリリングだった。

私が中学生の頃に父は脳梗塞を患い、家計は窮地に陥った。その後18年間の闘病の末、父は他界した。臨終の際、父は心臓の機能も弱まり、呼吸器をつけていたため、私達と話すことは出来なかったが、力強い眼差しで私の手を強く握りながら、一生を遂げた。父は私に、最期まで一生懸命生きることの大切さを教えてくれた。父の死が、私が高校時代に思い描いていた夢を思い起こさせた。

「音楽の勉強がしたい。」

そして、時を同じくして運命的な出会いが起こる。父の葬儀から1週間ほど経った頃、恩師となる指揮者の下野竜也先生の演奏会へふらりと行き、自分の中の価値観をぐらりと揺るがすほどの感動を覚えた。気づいてみると、演奏会終了後に全く面識がないのにも関わらず、先生の控室のドアをノックしている自分がいた。そして開口一番「先生の許で音楽を勉強したいです」と。驚きを隠せない下野先生の顔が忘れられない。

一念発起、私は勤めていた学校に年度末での退職を申し出、大学時代に借りていた奨学金を全額返済し、アパートを引き払い、グランドピアノを購入し、実家に防音設備を整えた。今まで放任主義だった母もこれには参って、涙ながらに「今ある幸せを大切になさい」と叱られた。30歳を過ぎてからの息子の奇行に母は猛反対だった。

それに反して、私は下野先生が教鞭をとる上野学園へ。指揮研究コースの先生方へ私がした初めての質問は「ソナタ形式って何ですか?」であった…。頭を抱える先生方の様子を容易に思い描くことができよう。それでも2年半上野学園でみっちり学び、在学中に紀尾井シンフォニエッタ東京の指揮研究員をさせていただく機会にも恵まれ、研究費を利用して、海外で行われている指揮のマスタークラスへ参加。ワイマール、ウィーン、そしてブダペスト!・・・やっとつながった、ただいまハンガリー!

その後、欧州留学を志し、第二の人生がスタートする。欧州のいくつかの大学での指揮科のレッスンを見学し、導かれるように、リスト音楽院大学院への進学を決意した。

そして、ここでもう一人の恩師メドヴェツキー(Medveczky Ádám)先生と出会うことになった。メドヴェツキー先生は70歳を過ぎた今でも、毎週のように演奏会をなさり、週2~3回ある指揮科のレッスンや、オペラ科の授業の伴奏もほぼ休みなく見てくださっている。先生の尋常じゃないほどの忙しさを目の当たりにし、いつ楽譜を読んでいるのか先生に尋ねたところ、「毎日、毎日ね。午前1時まで譜読みをしているよ」と穏やかに答えてくれた。彼の生活を近くでよく見ていると、バスの5分の移動でも、休憩中でも、生徒のレッスンの待ち時間でも、時間さえあれば楽譜を読んでいる。もしくはピアノを弾いて歌っている。演奏会後の打ち上げなどもメドヴェツキー先生の姿は見当たらず、きっと帰って次の演奏会の曲の譜読みをしているのだと思う。先生の音楽に少しでも近づけられるよう、私も努力し続けたい。

私はバルトークの音楽作品や、彼の生き方に大変魅力を感じ、2016年1月に、彼がブダペスト市内・近郊に住んでいた家々を音楽院の友人達と訪れた。

バルトーク博物館となっているブダ側チャラーン通りにある彼の家は有名だが、調べたところそれ以外にも17箇所ほど存在した。彼がリスト音楽院時代に下宿していたであろうアパートから始まり、教授時代、結婚、再婚、そしてアメリカに亡命するまでの家を、時代を追って、当時作曲された作品を確認しつつ、2日間かけて見て回った。

ベートーヴェンがウィーン郊外のハイリゲンシュタットを好み、引越しを繰り返したが、バルトークもまた引越しを繰り返した。例えば、リスト音楽院のピアノ科の教授に就任し、結婚して1人目の子供も生まれた頃は、ブダペストの中心地でもあるアンドラーシ通り、現在のオクトゴン駅近くに居を構えたかと思えば、ブダペストの聴衆が彼の作品に対して良い評価をしなかった際、彼は人を避けるように、ブダペスト郊外の静かな、そして寂しげな場所を選び、隠遁生活を送る。そして、再婚後は工業地帯を避け、バラのⅡ区と呼ばれる閑静な住宅街で作曲活動を続けつつ、国外に移住の可能性を探っている。

音楽作品も私生活も公生活も自分の意志に殉じて、時代に抗って生きた人なのだと思う。

その後、私は、バルトークの生まれ故郷である現ルーマニアのティミショアラや、コダーイが幼少期を過ごしたガランタ地方にも足を運んだ。

ハンガリーでの生活は今年で6年目、2年前にリスト音楽院大学院での生活も修了した。現在はありがたいことに、年に3~4回ほどハンガリーのプロオーケストラを指揮させてもらっているが、正直、その指揮活動だけで生計を立てるのはかなり厳しい。それでも今後もハンガリーに残り、バルトークの作品を特に集中して勉強していこうと思っている。なぜならハンガリーの音楽、そしてハンガリーの音楽家が素晴らしいからだ。将来はバルトークの作品や邦人作曲家の作品を海外で演奏できる指揮者になりたい。

生活の内容は留学当初と、さほど変わらない。外国語の習得と、ピアノ、そして指揮する作品のレパートリーを増やしていくことが日課である。41歳、家庭はまだない、たぶん持てない。

アパートメントではこれまでの6年間のハンガリーでの生活を振り返り、そしてこれからの展望を書かせていただきたいと思っている。

(はらぐち・しょうじ)
※映像は2017年12月にハンガリーで行われたショルティ国際指揮コンクールの自己紹介ビデオです。

原口 祥司

原口 祥司

指揮者
上野学園大学指揮研究コース、リスト音楽院大学院オーケストラ指揮科修了
ハンガリー・ブダペスト在住

Reviewed by
宮下 玲

「『音楽の勉強がしたい。』
私は勤めていた学校に年度末での退職を申し出、大学時代に借りていた奨学金を全額返済し、アパートを引き払い、グランドピアノを購入し、実家に防音設備を整えた。」

音大の門を叩き、欧州へ留学、そしてついに、音楽の夢の原点となったハンガリーへ・・・。

めくるめく旅路のなかで、原口さんは、作曲家・バルトークの作品を学ぶことに情熱を傾けます。

「自分の意志に殉じて、時代に抗って生きた人」ーこれは、原口さんがバルトークを評した言葉ですが、私にはそれが、原口さん自身にも重なるように感じられます。

「意志」。
その言葉が輝く、原口さんの物語のはじまりです。

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