ことばの軽さと違いについて。かおりさんへ

管理人室の往復書簡

かおりさん
先日はどうもありがとう。

ギャラリーのタナカさんや、清史さん、そして森山隊長とも逢えたし、嬉しかったし、そしてさ、緊張した。
なんでこうも、ただ逢いたかったひとに逢いに行っているのに、嬉しいのに、話せばいいのに、固まるのだろうか。
おとなになればなるほど、緊張の度合いが>(だいなり)になっている気がしている。
シンプルに「わーい」って思っているのになあ!

展示されていた写真のこと、うまく上手にことばにできないのだけれど、すべてが「しん」と静かな写真だなと感じて、ふたりの軸のようなものを想った。
あの写真たちを、なんだか「いきもの」だなって想った。まだその「しん」の音がこころの中に響いていて、なんとも言葉にまだならない。

デジタルとフィルムの違いを読みながら、少しずれるのだけれど最近、「違うということ」について考えているよ。
なんかね、かちりとハマらないことの面白さと難しさについて。ロジック的なことの違いとか、それをたどって新しい「論理」をつくりあげること。
ひとそれぞれ、生きてきた道とか、方法とか、感覚、好みとか、苦手なこと。
数学的に答えはひとつって言うのも乱暴だし、読書感想文みたく「みんな違う答えでOK」って全肯定するのもなにか違う気がしているの。

まあ、答えのでない事をまたモヤモヤと考えているよね私。
でなんかヒントに、たとえば

「あ い う え お」

このなかの音やかたちは違うけど、列は一緒じゃない?
なんか、そのくらいのくくりで、いいんじゃないかなって想ってて。

これ見よがしに書いているけど、これもう世間では当たり前の事だよねきっと…。
私はいつも、シンプルなことこそを、忘れそうになってしまうところがあって。

アパートメントのいろいろを、これからまたみんなでかたちにするにあたって、個人的にはこの「あいうえお」的な事を忘れずにいたいと想う。

最近さ、言葉にするとなんか軽いの。もともと軽めジャブではあるのだけど、さらにそんな気がして。
きっともっと、インプットしなさいってあたまが言っているのかもしれない。
本とか、映画とか、なんかいろいろ入れまくりたいと、枯渇しているのだと。

なので、やたらめったら手を出して、チャールズ・ブコウスキーとか読みなおしたり。セオリーにしたがい(勝手な解釈)、飲みながら。

かおりさんの「足りないこととあまりにも満ちていることは等しい」
森のように果てしなくて、このことばがあたまから離れない。
私はいつも、満ち足りたくないと想いながら生きていて。どうしてかなって考えたら、怖いのかもしれないな、と想った。
満ちたら次は無くなってしまうんじゃないかって思って、できるだけ余白をつくろうとする。
わざと、足らなくする。でも最近「満ちることがあっても、それは継続しない。きっとすぐに足りなくなるのだろう」と想うようになってきたから、怖くなくなってきた。

ひとは慣れて、すぐに求める生き物だものね。

もうすぐ桜の時期がくるね。
桜の塩漬けのおにぎりを今から食べるよ。

いい匂いがする。
いい時期が来るね。

はるえより。