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5/7 からっぽになるということ、そこからうまれるもの かおりさんへ

管理人室の往復書簡

かおりさんへ

まあ、相変わらず道は見つからず、迷子のままの私です。
なにを見ても言っても感じても、そこにある事実の前に最後、自分はからっぽになる。

でもね、このままでいいや、からっぽのままでいいや、どうしたって満ちることはないし、ならば空虚のなかに身を投じてその後のことはその時に考えようと思っているよ。
自分がからっぽだと自覚できるのは、しんどいがしかし、いいことかもしれない。

過去に重ねてきたものも忘れて。

悩み多き日々を、じゃなきゃ生まれてきた甲斐がないもんね。とたった今ある人に言われたところで、少しづつ見えてきたものを渡します。

今日は、双葉郡楢葉町の蛭田牧場というところの話。先日警戒区域に行ってきた話の続きです。
木戸ダムというところに行く道の途中に牧場があって、ちょっと気になって。
一緒に行った人が牧場と関わりがあったので、頼んで中に入れてもらった。

もうずいぶんと報道や、動物保護団体等の動きで知られていることではあるけれど。
原発事故があり、避難を強いられた多くの畜産家・酪農家は、やむなく牛や豚や、ダチョウや烏骨鶏(うこっけい)などをその場に取り残して行かざるを得なかった。
事故当時はあまりの混乱で情報が錯綜していたし、何頭どころでない、何十頭、何百頭もの家畜たちを受け入れ先もなく運び出すことは不可能だったと思う。

もしかしたら、これは私の推測だけれど。すぐに帰られると思ったのかもしれない。
それに、なにもかもが不足していたから、運搬するトラックのガソリンや餌、そういう根本で必要なものの絶対数もない状況のなかで「残していく」決断しかなかっただろう。

後からわかりだす事実に、彼らの絶望感はどのくらいのものだっただろう。

蛭田牧場も牛たちを残した。
牧場主が何度も通った形跡はあったのだけれど、牛たちはすべて餓死してしまったそうだ。
「通った形跡があった」と私がわかったのは、古い木の板にマジックで

「えさを勝手にあたえないでください。長期になればたりません。限りのあるえさです。」

と殴り書きしてあったから。
この言い方は、牧場主が書いたものなのだろうとすぐにわかった。厳しい状況を、飲み込めないであろう現実がその文体ににじみ出ていたから。

牧場の敷地、入り口のあたりに、大きなものから小さいものまで骨が散らばっていた。
私の足がすぐ近くにあるでしょう。踏みそうになったの。すんでのところで骨があると気がついて撮った。

まわりを見渡したら、骨がそのあたりじゅうに落ちていて、踏んでしまわなくてよかったと、変な汗をかいていたよ。

あとから聞いたら、餓死した牛たちの処理は国からの通達で「敷地内で処分する」ということだったそうだよ。
だから死んだ牛たちに防疫のための白い粉をかけて、敷地内に埋めた。私たちが歩いたところは処分場所だったようだ。

郡山さんが取材していた浪江町津島地区の酪農家の写真も、やはり敷地内で牛を処分(埋める)している写真があって、こういうことなのかと。

厩舎のなかにもうひとつのカードがあってね。
「僕達も一緒に助けて」の文字と、ブレーメンの音楽隊が絵に描かれていた。

聞いたら、これは牧場主でなくどこかの動物愛護団体がつけたものだろうと。
なにかショックなものがあるわけでもなく、迷い牛がいるわけでもなく、牛がそこで暮らし、餓死していた厩舎は整然ときれいに整備されていた。
その静けさがさらに、壮絶さを語りかけてくる。

見つけどころ、落としどころのないこと。
ものすごく静かな、鳥の声すらあまり聴こえない場所で、だれもなにも言わない。
ものだけが、圧倒的な現実を突きつけてくる。

草が生え放題の田んぼのわきには電力の鉄塔があってさ。
それぞれの立場で「どんな気持ちだっただろう」と呆然と考えさせられる環境。
避難を強いられた人たち。
牧場主、愛護団体。
電力にとどまり、復旧作業をする人たち。
封鎖ゲートと、電力の拠点のJ-ヴィレッジがある双葉郡広野町の火力発電所では、津波の影響を受けてもなお、満身創痍のなかで現場を復旧させて、電気を送り続ける。

なにがシロで、なにがクロなのかをはっきりと決め、最後にラインを引くのは誰なのだろう。
ラインの向こう側は、シロもクロもなく、ただやりきれない色だけがそこにあった。

答えのでないことがあるという、圧倒的な答え。

かおりさん
からっぽになってしまったものから、なにが産まれるのだろうね。

岡田 陽恵

岡田 陽恵

福島県いわき市在住。
最近ますます自分がなにものなのかわかりません。

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