入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

マリッジブルー

当番ノート 第52期

友人が結婚したり出産したりする歳になった。月日は早く流れるものだなあと思う。自分自身が結婚などの人生のライフイベントを想定していないと、好きな作品の新刊の発売日ばかり見て時を重ねて、自分自身が結婚できる歳なのも忘れていく。友人が結婚するとか結婚したとか結婚したいとか聞くと、ああ、そういや結婚が可能な歳なんだっけなと気づかされる。時の流れって残酷だ。

マリッジブルーって言うと、結婚前に感じる不安感などを指すが、新郎新婦の友人が感じるのもマリッジブルーと呼んでいいのではないか。私は基本的に友人の結婚をおめでたいと思えない。結婚する友人が妬ましいのではなく、友人の隣に並び立てるお相手が羨ましいのだ。私の友人のほとんどは女性だから、女性の私では、隣を争うことすら、できない。

友人と結婚が可能な世界で、友人の隣を競って負けたなら、納得して友人を送りだせる気がする。友人と結婚もできない世界では、隣を競うことすら許されず、私は一人、男であれば彼女の隣を競うことができたのかな、もしかしたら、そこにいたのは私だったかもしれないなともやもやするしかない。結婚相手として隣を競うことは、現在できない。

実際にそれが可能な世界であれば、必ず友人と結婚するというのでもない。ただ候補の一人になれて、その結果友人が私を伴侶に選ばないなら納得がいくのだ。本当に? いや、やはり自信がない。

友人と結婚することが可能な世界でも、私は友人の結婚を祝福できずに、私から離れていく気がする、寂しいとか言って、じたばたしているのかもしれない。でも、隣を競えたら、競うことすら許されない世界よりは、少しだけ清々しく、友人を送りだせる可能性がある。

あくまで可能性の話だが。

結婚とは、あなたのことを自分の次に大事にしますよという契約だと私は解釈している。だからかな、友人の結婚はひどく寂しい。友人が結婚すると、私はどう頑張っても友人の二番にしかなれなくなると考えているんだろうか。結婚していないときに、私が友人の一番であったという証拠はどこにもない。でも、一番でなかったという証拠もない。ところが結婚すると、友人の一番は結婚相手と決められてしまう。もう、私が友人の一番なのかもしれないと夢を見ることも許されない。

友人の二番にしかなれないと決められることが寂しくてたまらない。それに、私だって誰かの一番になりたい。友人と結婚できる世界であれば、それも可能なのだろうか。

雁屋優

雁屋優

文章を書いて息をしています。この梅の花を撮影したときの私は、ライターをやることを具体的に想像してはいなかった。そういうことに、惹かれる人。

Reviewed by
藤坂鹿

「この人の一番になりたい」という気持ちを初めて覚えたのは、小学生の頃だった気がする。「なんとかちゃんの一番の仲良しはわたし」「わたしの一番大切な友だちはなんとかちゃん」、この二つを両立させることが、小学生のわたしにとって、友だち付き合いをするうえでたいへん重要なことだった。
独占したい、大切にしあいたい。そういう気持ちがどこから湧いてくるのか、とてもふしぎだった。同時に、それが願ってもかなわないときの胸の痛みと、諦めのような気持ち。「まだほかにも仲良くなれそうな友だちはいる」とこっそり思った。
歳を重ねるにつれてすこしずつ、「友だち」と呼べる人びとの顔の数が少なくなってきた。けれども少なくなるほどに、その少ない人びとは確実にわたしの心のなかに、しっかりと居場所を持つようになった。きっと相手の心の中にも、同じくらいわたしの居場所があるのではないか、と思っている。根拠などはべつにないが、だって、そういうものじゃない?と、疑いなく思えるようになってきた。この図々しさ、年の功かもしれない。
結婚するとは、お相手の一番になることと同時にお相手を一番にすることであって、その人と結婚をしていない自分は自動的に二番手になってしまうのだと雁屋さんは言う。
一番とは、一番大きな居場所、ということなのだろうか。わたしだったら、たとえ小さかったとしても、深い居場所になりたい。ああ、そうだ、そう、歳を重ねるとともに「一番」の在り方には、実はいろいろあるのかもしれない、と思えるようになってきた気がする。一番大きい。一番深い。一番きらきら。一番しずか。だから、友だちが結婚しても、あまりさみしくなくなってきた。
雁屋さんの言う一番って、どういう一番なんだろう。雁屋さんは、どんな一番になりたいんだろう。雁屋さん、良かったら、こんどこっそり教えてください。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る