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2F/当番ノート

その日までのカウントダウン

当番ノート 第52期

祖父がおかずをつくってもってきてくれる。その応対に出るのは、いつからか、私の役割になった。祖父に会うのが嫌なのではない。頑なに出てこない母の存在を認識するのが嫌だった。母には母の、祖父を嫌うだけの理由があって、私には私の、祖父に懐く理由があった。父と娘、祖父と孫娘、では、それぞれに見える景色が違う。そのことも、子どもの頃はわかっていなかった。今になって、ようやく理解し始めた。

それに多分、祖父がおかずで喜ばせたかったのは私たち、いや、少し自信をもって言うならきっと私である。初孫の私は、特に可愛がられていた。気にかけてもらってもいた。あちこちで、びっくりするほど自慢されてもいた。だから、私に会えれば、それでよかったのかもしれない。

地元に帰ってきて、祖父に会って、私はその顔に老いを感じた。私はどうしても視覚情報の量が少ないからどう変わったとうまく描写することができないのだが、それでも必死に描写してみる。しわが増えた。肌の潤いがなくなった。耳が遠くなった。動作がゆっくりになった。その挙動すべてが老いを示していた。私はそれに気づいて、泣きたくなった。

細胞は日々傷ついていく。それを修復できずに損傷となって、それがつもって老化する。老化は、死へ近づくことだ。大学での講義の内容を頭でなぞりながら、いずれ来るそのときから必死で目を背けたくなった。

私は、大切な人を失ったことがない。元々、大切な人が少ないのもあるし、幸運なだけなのかもしれない。しかし、そんな時期が来ることはわかっていた。私より先に祖父が、祖母が、両親が死ぬ。順番通りであればあるほどいい。祖父母を見送らずに私が先に逝ってしまったら、それこそ本当に悲しい事態だ。私が祖父を、祖母を、見送ることになるのは、ごく自然なことで、それは自然の摂理で。そんなことはわかっているのだけど、私は祖父を失うことが受け入れられない。

祖父の老いを感じて、私は祖父に会うのがつらくなった。いずれ来るそのときを意識させられるからだ。祖父も祖母もいずれそうなる。わかっている。高校生の頃から周りでちらほら祖父母世代の訃報を聞き、そういう年齢になっているのだと自覚もしてきたけれど、私は、そんな覚悟ができていなかった。

我が家にはポテトサラダが三種類あって、祖父の味と祖母の味と、母の味だ。それが当たり前だった。子どもの頃、祖父のつくるかすべの煮つけとかヒラメの刺身とか、寿司とかそういうものが大好きだった。チューリップの形をした唐揚げも、いももちも、皆好きだった。そんな日常が続いていくんだと思っていた。私が高校に行こうと、大学に行こうと、途切れることなく、日常が続いていく。私がいなくても、そこにその日常はあるのだと思っていた。

でも、現実は違う。祖父は耳が遠くなったし、動作もゆっくりになって、転倒しそうで危なっかしいときが増えた。祖父はどんどん老いていく。そのことが私はどうしても受け入れられない。

そういうときが来たんだな、と静かに受け入れるのが大人ってものなのかもしれない。でも、私は祖父の前ではいつだって孫娘のままだし、大人になる覚悟もできないでいる。こんなの、幼過ぎると笑うだろうか。小さな頃の思い出の品を捨てられないのと同じく、手放せないのだ。いつか、お別れを言わなくてはならない。そんなこと、わかりきっているのに、どうしても納得できない。

雁屋優

雁屋優

文章を書いて息をしています。この梅の花を撮影したときの私は、ライターをやることを具体的に想像してはいなかった。そういうことに、惹かれる人。

Reviewed by
藤坂鹿

生きているものはみんな生まれて死ぬ。生まれて死ぬということがどうしても避けられないまま、いつだって我われは死を本能的に避けようとする。何千年ものあいだ、死ぬことを少しでも遅らせたり、遠ざけたりしようと必死である。現代において電車でアンチエイジングの広告を高々と掲げる我われは、決して中世の錬金術を笑えない。さて、雁屋さんは、雁屋さんのおじいちゃんに死んでほしくないと言う。気持ちはすごくよくわかる。わたしも、大切な人に(別にあまり大切じゃない人でも)「ずっと死なないでほしい」とよく思う。

けれどもこれ、ほんとうに「死なないでほしい」ということなのだろうか。

「死なないでほしい」と本気で思っているか?と問われたら、ちょっと「うーん」という感じがする。少ししてから、いや、死ぬのはさ……死ぬのは仕方ないんだよ……だって死ぬから生きてるって言えるんだし……という気持ちになってくる。であれば、「死なないでほしい」とは、いったいどういう気持ちなのだろう。「死なないでほしい」は「ずっとこのまま(あのときのまま)幸せでいてほしい」「変わらないでほしい」「目の前からいなくならないでほしい」「大好き」という思いが複雑にミックスされている。「死なないでほしい」は、死ぬことを否定しているわけではなく、ただ、生きているというこの世界線のなかで(幸せに)自分と関係していてほしい、という願いであるのかもしれない。だから雁屋さんは、おじいさんがこの世界線のなかですこしずつ死のほうへ迫っていくことを「どうしても受け入れられない」と感じている。

でも、もし、もし、たとえ生きていても死んでいても、その人との関係性を紡ぎ続けることができたとしたら? 目の前からいなくなって、こちらからの呼びかけへの応答が聞こえなくなったとしても、関係が消えないとしたら?

生きている以上死ぬのであれば、生きている側からも、死んでいる側からも、生きていても死んでいても関係し続けられるような、そんな道をひらいていくことは、できないだろうか。アブナイ霊感商法のような話ではなく、ただ純粋に、当たり前のように関係し続けることは、はたして不可能だろうか。

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