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2F/当番ノート

憂鬱を捨てる

当番ノート 第52期

日常を憂う日々だった。理由はいいエッセイを書きたいから。私には特殊な出会いもおもしろい出来事も何もないと部屋のなかで嘆いていた。腐り朽ちていくまでいくばくもなかっただろう。生来が閉鎖的で排他的なのだ。瞼をこじ開けて世界を見ないと、すぐ繭に閉じこもる。

特殊な出会いが欲しい。おもしろい出来事が欲しい。刺激的な何かが欲しい。エッセイのために。そんなことを思い続けていたが、そのどろどろした思いは少しずつ成仏していった。

きっかけはこのアパートメントへの滞在から始まった。私はここで、自分を描くように心がけた。出てくる思いは死にたくないとか老いたくないとか、そういう負の感情ばかりだったけど、私はこの部屋で私に向きあった。それはひどくしんどいこともあった。自分の内面を晒すのだ。怖くて震える夜もあった。

それでも、アパートメントのこの部屋は、一人きりではなかった。私の文章だけではなく、私自身を見守ってくれる人がいた。レビューがつくたびに、世界が開かれ、形成されかけた繭をやさしく溶かしてくれた。私は、一人にはならなかった。

自分と負の感情は切っても切り離せないことを知った。私はきっと結構ネガティブな方だろう。前向きになるばかりが正解ではない。でも、憂鬱に浸るばかりも正解ではない。そして、そもそも人生に正解などない。

そして、最後の成仏のきっかけは、あるエッセイ講座に参加したことだった。そのエッセイ講座では感情を見つめることを徹底的に集中して行った。そうしているうちに、エッセイに特別な出来事など必要ないのだと気づいた。感情を見つめていくことを繰り返せば、いいエッセイには自然とたどり着く。そのために書き続けることだ。私がすべきことは特殊な出来事を待ちわびることではなくて、感情を描写する練習を積み重ねることだったのだ。

バスに乗ったら胃袋をひどく掻き回されるような運転で吐きそうになったとか、ファミレスの新作のパフェがおいしかったとか、そんなことでいい。そんなことの何がおもしろいと思うかもしれないが、私の当初の目的を思い出せばそれはそれでいいのだ。おもしろくなくても、日常を生きている。それが伝わることに意味がある。

自分を削りながらエッセイを書いていた頃の私へ。

エッセイは自分の一部を削りながら書くものじゃない。積み上げたものを一つ一つ取り出して、飾っていく営みだ。ライター/エッセイストと名乗っているのに、それに気づくのに本当に時間がかかってしまった。けれど、気づけてよかった。

まずは、毎日日記をつけ続けるところから始めよう。感じたことを覚えておこう。そして、書き続ける。私は、これからも書いていく。

雁屋優

雁屋優

文章を書いて息をしています。この梅の花を撮影したときの私は、ライターをやることを具体的に想像してはいなかった。そういうことに、惹かれる人。

Reviewed by
藤坂鹿

毎日当たり前のように眺めていた景色のなかに、天使を見つけることがある。つまらない、と打ち棄てていたものが、見たこともないきらめきを放つことがある。わたしなんて、と思っていた「わたし」から、一陣の風が吹き抜けていくことがある。

生きているとはほんとうにふしぎなこと、だと思う。見えているものはなにも変わらないのに、なにがあったわけではないのに、ある日突然、目が変わるのだ。それを見ている「わたし」の目が変わる。すると、これまで見えていたものの違うところにあたる違う光が目に飛び込んできて、景色が一変するのだ。
目の変化は、心の変化から起こる。岩が水に削られ砕けるように、日々に心が流され削られ、いつのまにか角が取れ、別の角ができて、隠れていた面が光に当てられ、そうして心はかたちを変えていく。この流転こそが、目をも変えるのだ。

この数ヶ月、走り抜けた雁屋さんに拍手をしたい。ここにあるものを見つめ続けた雁屋さんは、たぶんこれからも書き続けることをやめないと思う。何かを探したり、何かを削り落としたり、そんなことをせずともものは書けるのだと知った雁屋さんは、たぶん、ものを書くことをやめない力を手に入れたのだと思う。

その姿を間近で見せてくれて、ほんとうにありがとうございました。雁屋さんの行く道に幸あれ。

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