誕生日が嬉しくなくなってきたのは、成人を越えた辺りからだろうか。成人するとお酒が飲めて煙草が吸える。煙草はやらないが、お酒は嗜んでみたかった。そこでほろよいの冷やしパイン味を成人の瞬間に買いに行き、一人暮らしの小さな部屋で缶を開けた。
あのときの高揚感は何物にも代えがたい。大人になった瞬間を味わって、解放感に満ちていた。しかし、それを最後に、私は誕生日を歓迎できなくなった。二十歳過ぎたら、あとは老いるだけと思っていたからだ。
老いたくなかった。しわしわにもなりたくなかったし、よぼよぼにもなりたくなかった。そして体を鍛えるなどの努力は何一つしたくなかった。
この歳で時が止まればいいのに、と思う。老いていく。そしてさらに死に近づいていく。そのことがどうしようもなく、怖い。恐怖のあまり夜に一人涙したこともあった。一人枕を濡らしたのだ。
誕生日を祝うのは、もはや気をまぎらわせるための逃避行動になっていた。おいしくて高いお寿司も、好きな本も、全部恐怖からの逃避に使われた。本当にこんな風に扱って申し訳ないと思う。でも、歳を重ねる恐怖は消えてくれなかった。
そんななか、友人が自分の誕生会を主催した。自分の誕生会を主催する。私はその発想に驚いた。誕生日に大好きな人達に囲まれて幸せに過ごし、それを報告してくれた友人は本当に素敵だった。歳はそんなに変わらないのに、何が違うのだろう。老いるのが怖くないのだろうか。
私は誕生日の度に老いていくことに絶望し、老化したくないと逃避に走っている。私の厄介なところはアルコールのような依存すると治療が必要なものではなく、物語をはじめとする創作物に依存するので、逃避傾向のひどさをずいぶん長いこと認識しなかったところにある。
老化したくない。死ぬとしても老化のプロセスを踏みたくない。そう思っているから、もう誕生日が自分に好きなものを買ってあげる口実でしかない。
科学が進歩すれば、老化しなくてよくなるかもしれない。そうしたら誕生日も楽しくなるだろうか。