スピードの速さについて、3月20日午後、かおりさんへ。

管理人室の往復書簡

かおりさん

もうすっかり3月も終わりのほうになってしまっていた。
光の早さで時は経ってしまうね。

なんかね。
今年の3月11日が来るにあたり、なんというか、少しあの時の感情とか起こっていたことを必要以上に思い出してしまい、歯を食い縛っていた自分がいて、肩がこっちゃったよ。
同じことは二度と起こらないけれど、同じような事象があるのではないか、もしそれが起きた時に自分は、積み重ねたものをフル装備して冷静に立ち向かえるのだろうか、なんて。

やっとここの辺りで少し、力が抜けてきた。
なにをするにしても、自分を立ち直らせるにも時間がかかるから、世の中のスピードに呆然としてしまう。

私はなにも被害を受けていなくて、大変なひとたちはもっとしんどいのになあ。
でね、いろんなひとに話を聞くにつれ、ああこれはひょっとして、みんな思うことなのだろう、様々な場所に住む、ほかの大勢のひとたちもそれぞれに、あの日を境になにかを失ったり得たり、改めて気がついてみたり、傷ついてしまったのだろうなと思った。

誰しもがあの地震や原発の事故を経験した。
そう思うようにしたら、少し力が抜けたよ。

これからもきっと、みんなからだのなかで行ったり来たりしながら、どうにかこうにか、こころのなかの異質なものとでもいうのだろうか、そんなようなことと共存していくのだろう。
それはきっと、悪いことではないと思うの。

なんかまだ、うまく整理できずにいる。
なにもしなくても日々は流れていくし、いつまでも立ち尽くしてもいられない。手はきちんと動いている。
かおりさんが「結局何をしても自分のことに戻る」と日記に書いていたのを読んで、まさに今私は、そんなようなことの真っ只中にいる感じがするよ。

でもね思うんだ。
それって、すごく大切なことかもって。自分の幹がしっかりしていないと、なにも書いたり撮ったりできないってわかったから。
幹がしっかりしていないことには、葉は茂らないし、実も成らない。

今までわりと勢いで生きてきたぶん、そのことで立ち止まっているのだろうと思う。

浅田次郎の「プリズンホテル」や「きんぴかシリーズ」を読み直してみて、ひたすら人情とか仁義とかにまみれてみたり、なんか反動でリョサの「緑の家」を読んでみたり、人間としてどうありたいのかを絶賛模索中でございます。
仁義の切り方を練習しているから、今度会ったときに披露するね。

ねえかおりさん、当番ノートを楽しみに読みながらいつも思うのだけど、アパートメントに触った質感があるとしたら、ざらばん紙って感じがする。
きれいなつるつるした紙じゃなくて、ざらばん紙って、においもあって、ずっと触っているとあったかくなるじゃない。
夜店が終わって家について、赤ワインあけながら読む時間が穏やかで。

はるえより。