とみかわ けいこ(下)

長期滞在者

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 ブラジルへの旅立ちは、わたしにとって未知の世界への旅立ちだった。知らずに育った故郷へ戻って、その国の文化や価値観、言語を一から学び直さないといけなかった。泣き崩れる父と成田で別れたとき、わたしは多分、Keikoとしてのわたしを日本に置いてきてしまったのだと思う。ブラジルに到着したとき、赤ん坊のように、ぽんと新しい世界に投げ出され、まるで裸の無防備で。わたしは、十五で再び、赤ん坊になった。あの26時間ものフライトで、なにかが、きっとリセットされたのだ。

 目を開いたとき、真っ先に飛び込んできたのは、サンパウロの真っ青な空と、ファヴェーラのオレンジ色の屋根だった。オレンジ色の瓦屋根が、密集し、幾重にも折り重なった、巨大な城のように見えた。その城からは不思議な匂いが立ちこめてきた。ブラジルの、貧困と混乱の香り、乾いた土の香り、微かに残る夏の終わりの寂しい香り。あの強烈なコントラストは、わたしをものすごく不安な気持ちにした。瓦屋根の向こう側に、生きた人間が生活しているのだと、それだけで途方に暮れるような思いだった。わたしも、この国で生活していくんだ、と、そのときはそう漠然とそう思った。だけど、それが一体どういうことなのかよくわかっていなかった。

 ブラジルに越してしばらくは、母の実家で暮らした。家の門の横に大きなフランボヤンの木と、わたしの父が植えたベンジャミンの木のある、沖縄式の屋根が特徴的な小さな家。ピンク色の外壁で、テラスの床はボルドーのワックスで塗られていて、真っ白なハンモックと、がっしりとした木のベンチが置いてあった。マンゴーの木と、ジャックフルーツの木、レモンの木、マナカの木、キャッサバの畑、プルメリアの群生、小さな井戸、バナナの木々に囲まれて、町から遠く離れた、山の中にひっそりとその家は建っていた。3年前と、何も変わっていなかった。犬が一匹、増えていたことを除いて。

 移住してすぐのころは、進学先を探したり、ブラジルで生活していくためのいろいろな手続きに追われて忙しかった。あっちへこっちへ、役場などを転々とした。IDカードをつくるためだとか、本当にいろいろ。なかなか進学先も決まらなかった。たまにふと冷静になるとき、どこをみても知らない顔、知らない人、知らない町並み、知らない言語、知らない文化の中にいることが、わたしをたまらなく不安にさせた。人に話しかけられたり、話しかけるのが怖かった。なにをどう言えばいいのかわからなかった。スーパーで会計を済ませることも、パン屋で「フランスパンを三つください」と頼むことすらできなかった。自分にできないことが、あまりにも多すぎて、あまりにも無力で、わたしは黙り込んでしまうことが増えた。口数が減り、とにかくよく泣いた。よくもまぁ、こんなに涙がでるな、と思うほどたくさん。

 ブラジルで生きるためには、ひとつひとつをすべて「覚え直し」ていくことが必要だった。本当に子どものように、挨拶の仕方を学んで、筆記体の書き方を学んで、些細なことを一つ一つゆっくりと学んでいった。なかなか言葉は上達しなかった。わたしは元来とても内向的な性格だったから、自分から進んで人々に話しかけるのが苦手だったし、まわりの人々もおどおどするわたしと何を話せばいいのかわからなかったのだと思う。
 学校では、無口で物静かだった。話したくても、言葉がのどをつかえて出てこなかった。だけど、そんなわたしに助け舟を出してくれる友人もいた。彼らはどこかでわたしの迷いを察知していたのだと思う。ふと差し伸ばされる手に、何度も何度も助けられた。だけど、当時のわたしは自分のことで精一杯で、彼らのことをもっと知ろうとしなかったし、そこまでの余裕がなかった。彼らの容姿や、しゃべり方をしっかり覚えてるのに、彼ら自身のことはなんにもわからない。兄弟がいるのか、どんな家で育ったのか、どんな子どもだったのか、もっともっと知りたかった。連絡先さえ知らないから、最初の学校で知り合った人々とはもう連絡のとりようがない。
 でも、たまに、わたしに話しかけてくる人があった。大概が違うクラスの人で、それまで関わったことのない人々だった。彼らは一様に、自分の身の上話をして帰っていった。なかには大事な秘密を打ち明ける人もあった。わたしは、静かに彼らの話を聞いた。彼らは、言葉の不自由なわたしに、ただただ話を聞いてほしかったのだと思う。うなずいたり、相づちをうったり、首を縦や横に振ることしかわたしにできることはなかったけれど。友人たちの身の上を知らないのに、名前も知らない人の秘密を知っていたりするのは、なんだかとても不思議なことだった。

 私立の高校に編入してからは、以前よりもポルトガル語に対する恐怖感は薄れていたし、大分理解力もついてきていたから、すぐに友達もできた。授業の理解力もどんどんあがり、成績も良くなった。多分、クラスの中では、真面目で勤勉な人だと思われていたから、人からの信用は厚かった。自分自身で、自分の居場所を自分なりに作ることもできるようになった。仲がいい人もいて、その子の家で長時間話し続けたりということもあった。

 それでも、家ではよく泣いた。そんなとき、わたしは家の周りの大自然の中に身を投げて、何時間も瞑想に耽るみたいに、何も話さず、黙って過ごした。木々が風に揺れる音を聞き、太陽が沈む場所を毎日確認した。飼っていた犬が食べる雑草を食べてみたり、満月の夜に部屋の窓から飛び出して踊ってみたり、突然のスコールに打たれてみたり、家の屋根に登って昼寝をしてみたり。山の中で生きていたのがよかったのか、街での生活で混乱する頭や、奮闘する自分自身を必ずリセットできるようになっていた。何度も何度もリセットしなおしながら、何度も何度も立ち上がった。赤ん坊が歩き始めて、いろいろ探索したいのと同じように、わたしももっともっと色々なことを知ろうとした。何を見ても、聞いても新鮮だった。なにより、人々はわたしに「こうであれ」と強要することもなかった。最初はそれに戸惑ったけれど、わたしは「こうであるべき」というしがらみから解放され、はだしのまま自由に歩くことに慣れていった。人の目を気にすることも今までよりは少なくなった。あるがままの自分を、あるがまま生きよう思うようになった。それもすべて、ブラジルの自然や、人々のおおらかさがなせる技だったのだと思う。
 
 長い時間をかけて、わたしはブラジルで生きること、ブラジルの人々と生きることを覚えていった。言うまでもなく、日本に置き去りにした、人の顔色ばかり伺っていた「とみかわ けいこ」とは、もう別人だった。ブラジルでのわたしは、Maysaとして生まれ直して、育ち直した。日本で暮らす今、Maysaという名を恥じずに生きられるようになったことが、わたしは本当に、本当に嬉しい。Keikoと呼ばれる違和感は今でも拭いきれないでいるけれど、その名前に対する様々な気持ちを、今では大事だと思っている。それを、過去の自分の過ち、苦しい経験として、今後もきちんと背負っていくつもりだ。決して簡単な道のりではなかったし、まだきちんと清算しないといけないと思うことは山積みだけれど、ブラジル人として生まれた自分、ブラジル人であることを極限まで否定した自分、一度は名前を捨てた自分、そしてその名前を取り戻したという小さな歴史の続きを、この先も細々と築いていきたい。