へジナウドの文法(下)

長期滞在者

 へジナウドの息子さんが癌である、そういう話が飛び交ったのはある朝のことだ。事務員さんが話しているのを盗み聞きしてしまった学生がいて、その話は、乾いた土に降る雨のように、あっという間にクラス中に広まった。友達のいなかったわたしでさえ、それを耳にしていた。あまりにはやく広まったこの話が真実なのか、ただの噂なのか、誰しもが気にしてた。校長に問いつめてみよう、と言う者もいた。だけど、クラスのリーダー的な男の子が、まだしばらく黙っていよう、と人々を諭した。へジナウドから直接聞いた方がいい、彼なら絶対に話してくれる、と。

 へジナウドが再び姿を現したのは、それから数日後のことだ。教室の後ろの入り口から、聞き慣れたなめらかな声が、おはよう、みなさん、と朝の挨拶を告げた。学生たちは、一斉に振り返った。少し疲れた顔をしたへジナウドがそこに立っていた。自然と拍手が起こった。へジナウド、といくつもの声が彼の名前を呼んだ。歓声とも言えるいくつもの声。へジナウドが、いつもの踊るような足取りで教壇に立ったとき、それまで騒がしかった教室の空気がしんと静まりかえり、まるで、ぴんと張られた、細い、一本の糸のようになった。
 へジナウドは、まずはじめに、何日も授業を休んだことを詫びた。連絡が遅くなって心配をかけて申し訳なかった、とも。そして、自ら息子さんの話を始めた。先日、クラス中に広まった、あの噂は事実だった。へジナウドは息子さんの様子などを軽く説明した上で、これからはあまり授業を休まないよう、迷惑がかからないように努めるよ、と言いながら教科書を開いた。一刻も早く、この話題を終わらせたい、そんな表情だった。誰もが知りたかった真実であったはずなのに、誰一人としてそれを喜ぶ者はいなかった。みんな、どこかでそれが勘違いであればいい、根も葉もない噂であればいいと思っていたに違いなかった。その日の授業は、それぞれの集中力が宙に散乱して、どこにも落ち着く場所がないようだった。

 それからしばらくは、ごく普通に文法の授業が行われていた。へジナウドも、疲れた表情を見せることはあれど、笑うことも、冗談を言うことも、学生たちに喝をいれることもあった。ただ、歌うことだけはしなかった。へジナウドの寂しげで、優しい歌声を聞くことはめっきりなくなっていた。彼の心境を思えば、当たり前のことだ。鼻歌なんて歌っているような心境ではなかったはず。そんなことは誰にでもわかる。だけど、わたしにはそれがほんの少し寂しいように思われた。
 へジナウドはたまに、わたしの机の前にきては、気遣う様子を見せることがあった。授業にはついてこれているか、なにか困ったことはないかと。わたしは相変わらず、自分の殻に閉じこもりがちで、うまくコミュニケーションがとれずにいた。だけど、へジナウドの授業中に泣きそうになることは減っていたし、それはへジナウドの目にも、そしてわたし自身の実感としても明らかだった。
 高台にあった予備校への道のりが嫌ではなくなったのは、そのころだろうか。濃い朝霧を溶かすような朝日のまぶしさや、空気中に浮かぶ、細かい無数の水滴が七色に輝いていること、予備校へ続く道が映画のワンシーンのように美しいということに気がついた。それだけの心の余裕ができるほどには、予備校の生活に慣れていたのかもしれない。

 だが、ある朝、へジナウドは目を真っ赤に腫らせて現れた。授業をてきぱきと進めようとはしていたものの、その声に、言葉に、血は通っていなかった。何かが起きたのだ、クラス中がそれを予感していた。それを口に出してよいのか、黙っていた方がいいのか、そのような迷いが漂って、膨れ上がって、教室の中は重々しい、いろいろな思いたちが行き場をなくしていた。教室を見回したへジナウドと、目が合ったような気がした。胸が締め付けられて、苦しくなった。へジナウドは、一度目をつぶり、ゆっくりと深呼吸した。
 
 僕はいま、死ぬほど苦しい。君たちに、こんなことを話すのはよくないとわかっている。だけど、少しだけ話をさせてくれ。
 僕の息子が癌なのは、君たちにも話した通りだ。彼の手術が、間近に迫っている。昨晩、息子に言われたんだ。なぜ、ぼくのそばにいてくれないのって。僕は、この仕事柄、週に三日は家を空けている。毎日何百キロの道のりを往復するのは無理だからね。僕以外の先生たちだって、同じような生活をしている。それは特別なことじゃない。でも、家を出て、この街に車を走らせる間、何度家へ戻って、息子を抱きしめてあげようと思うことか。妻は休職しているから、僕が必死で働かなくちゃいけない。息子のためにも、家族のためにもだ。だけど、そばにいて欲しいとせがむ息子に背を向けて、仕事にでなくちゃいけない。その度に、気が狂いそうになる。僕が留守にしている間に、彼に万が一のことがあったらどうすればいい。自分を許せるか、後悔しないでいられるか。僕は今、本来はどこにいるべきなのか、そんなことばかり考えてしまう。君たちから授業料をもらっているのに、こんな無駄な時間を割いている。申し訳ないと心底思っているのに、それでもやっぱり自分はこんなところで何をしているんだ、と思ってしまう。僕は、自分がこんなに弱い、情けない人間だとは知らなかった。本当に苦しいんだ。
 へジナウドは、息継ぎもせず、まくしたてた。彼の一言一言が、槍やガラス片のように、胸に突き刺さった。唇を噛んだ。わたしには、血だらけになって涙を流しているへジナウドの姿が見えた。その姿は、祖母の家に飾ってあった、十字架を担ぐ、泥にまみれ、額から血を流すのイエスの像と重なるようだった。思わず、目を閉じて、両手を握りしめた。祈るような気持ちだった。
 
 へジナウド、少し外の空気を吸っておいでよ、と、誰ともわからぬ声が、教室の静寂を切り裂いた。へジナウドは、額を手で抑えるようにして、頷いた。そして、小さく、すまない、と行って教室を後にした。顔色がひどく悪かった。その日、へジナウドは、教室には戻らなかった。代わりに、校長がやってきて、へジナウドに少し休むように告げた、と話した。君たちにも迷惑をかけているが、僕たちの友人を許してやってくれ、とも。

 手術が無事に終わったことを聞かされたのは、へジナウドが予備校に復帰したころだ。それ以降、彼は息子の様子をよく話して聞かせるようになった。あの日、胸の内にあった迷いを吐き出したことによって、なにかが吹っ切れたのかもしれない。不安がなくなったわけではないにせよ、手術が無事に終わったことで、へジナウドのまわりには、またあたたかな風が吹くようになっていた。へジナウドが回復にむかう息子の様子を語る表情は、すべての人を幸せにできそうなほどに、優しくて、まぶしかった。
 わたしが見ていたのは、へジナウドの周りで起きたことの、ほんの一面に過ぎない。わたしが知っていることも、ほんの限られた一端だ。だけど、わたしはへジナウドという人に出会えて、ほんとうに良かったと思っている。彼と話をしたのは、数えられるくらいしかないけれど、どんなときでも、寄り添うように、励ますようにしてくれた。まるで、君はきっと大丈夫だよ、と言うかのように。
 へジナウドはいまでも、わたしがかつて学んだ予備校の講師を務めている。某動画サイトに、予備校の学生たちがあげた動画の中で、彼の姿を目にしたのだ。相変わらず、カエターノ・ヴェローゾによく似ていた。わたしが在籍していた当時よりは、少しだけ歳を重ねていることがわかったが、それ以外は変わっていないように思えた。だけど、今のへジナウドはきっと、文法の授業をしながら、教室のなかで歌っているにちがいない。そうであってほしい、と心の奥底から願っている。