板挟みの孤独

長期滞在者

 ワールドカップで盛りがる祖国の様子を、最近よくテレビで目にする。歩く人々の姿、生活、美しい風景。目にする様子は様々だけれど、その度に胸がきゅうと締め付けられ、苦しくなる。わたしがいない、あの国。わたしのいない、年月。言ってしまえば、わたしはいつだって不在だった。わたしは、いまでもあの国のほんの一面しか知らないでいる。

 某テレビの特集で、ブラジル生まれのサッカー選手たちのドキュメンタリーを観た。闘莉王選手と、ジエゴ・コスタ選手のふたり。ふたりとも、ブラジルを遠く離れて、日本やスペインで、それぞれ活躍している。彼らは、新しく渡った土地で苦労を重ねながら、様々な試練を乗り越えてきた。そして、その土地を心から愛し、その国のために必死に、それこそ命をかけて闘っている。彼らはとても立派だし、強い信念をもっていることがなによりも素敵だと思う。ただその反面、彼らの言葉の節々から感じる、ある種の物悲しさが、わたしには印象的だった。

 あとにしてきた祖国への深い深い愛情と、新しく移り住んだ国への感謝、ご恩。そのふたつの気持ちが彼らの中には同居している。だけど、彼らは生きるために、恩返しをしようと新しい国にとどまり続けている。闘うことを続けるために。まるで戦士のようだと思う。彼らが異国の代表として闘うことで、祖国の人々にはある種の誤解が生じる。愛国心がないだとか、裏切りものだとか。彼らの中に、そういった気持ちはないのだろうけれど、他者からの誤解や思い込みを肌でじりじり感じるだろう。自分たちの真意を理解されないことへの悲しみだって、きっと……

 彼らの姿をみて思うのは、いつだって板挟みになっている人というのは、とても物悲しいということだ。底知れぬ強さの根底には、板挟みになっている人にしか知り得ない深い深い悲しみや孤独がある。そんな彼らの姿をみて、わたしはいてもたってもいられなくなる。わたしは、あなたたちの気持ちがわかる!って大声で叫びたくなる。でも、それこそおこがましいことなんじゃないかって。わかってるって、思い込んでるだけなんじゃないかって。彼らの姿に、自分自身を投影して、共感してるだけなんじゃないかって。だって、わたしと彼らの置かれてる状況は似ているようで、まったく別物だから。彼らは自らの選択でその道を歩んでいる。わたしは、道に迷ったまま、ふらふらと漂ってるだけで。

 わたし、ほんとうは、板挟みになんてなりたくなかったんだと思う。ブラジルを思い出す度に、悲しくなっていては仕方がないのに、毎回毎回それを繰り返してしまうのは、ブラジルとわたしの関係がひどく複雑だからだ。それと同じくらい、日本とわたしの関係も複雑で、どうにもうまく言葉にできない。自分でも、よくわかっていないからこそ、同じことを堂々巡りで考えて、感じて、戸惑って、ということをこの年になっても繰り返している。似たような境遇のひとをみると、胸が締め付けられるし、自分とは別の生き方を選んだひとをみても苦しい。誰を見ても苦しくなる。ブラジルという大きななにかに、まるで、永遠に叶うことのない片思いでもしているかのようだ。わたしのなかにある、ブラジルへの捩じれた想いは、いつになったら据わりのいい場所を見つけられるんだろうか。この胸の締め付けから、逃れられる日がくるんだろうか。そんなことを考えながら、ワールドカップのニュースを観るために、今日もテレビをつける。