痛めた左指、あるいは語学

長期滞在者

左のひと差し指を痛めた。
なぜそうなったのかさっぱり分からないのだが、ある朝目覚めるとすでに痛かった。
これでは弾けない、と思ったものの、思い当たるようなことをした覚えがないのだから大したことないだろう、と気づかないふりをしてみた。
いつのまにか痛みも消えるだろう、と。
でももちろん、そんなことにはならないのだった。
右のそれと比べれば明らかに赤みを帯びているし、少し腫れてもいるようだったので、湿布(正確にいうならそれは湿布ではなく「冷えピタ」だった)を巻きテープで止めて曲がってしまわないように固定した。
病院に行こうかとも思ったのだが、痛めたのが腱でないらしいことは分かってもいたので─というのも、腱鞘炎なら以前に一度やったことがあり、それとは全然違うものの感じがしたからだ─なんと説明すればいいのだろう、フランス語および英語で?たとえ説明できたとしても、その後の結果および処置の方法を説明(もちろんフランス語および英語で)されても理解できるかしら、などと考えるとつい腰が重くなってしまうのだった。
試しに弾いてみたけれど案の定弾けない。
そこで、思い切って休んでしまうことにした。レッスンも、室内楽のリハーサルも、全部。
そう決めてしまうと突然気持ちが楽になり、学校のことは忘れて遊ぼう、と思い、アメリカのドラマを何話も続けて観たり、音楽院が始まって以来遠のいていた会話以外のフランス語の勉強をしたり、展示会のオープニングパーティ(フランス語ではヴェルニサージュという)だの友人宅および友人の開催するちょっとしたイヴェントでのディナーだのに毎晩繰り出したりしていた。
驚くべきことに、私はほぼ毎晩死んだように眠った。
不眠症の気がある私の睡眠状態は大体において短く、浅いのだけれど、出かけるのが大体夜なので眠りにつくのが遅い時間だったとしても、翌日の昼過ぎまで、どうかすると3時くらいまで寝てしまうというのは普通ではない。
指を痛めでもしない限り、私は安心して休むということができないのだ、ということに思い当たって驚いた。
自分の真面目さ─というよりいっそ、不器用さ─に。
一週間が過ぎたところで痛みが和らいだので、もういいだろうと練習を再開することにした。
試しに室内楽のレッスンに行って、最初の1曲を弾き終えると、先生は開口一番こう言った。
「まぁ、あなた、ヴァイオリンを替えたの?」
大変だ、と思った。
なぜなら来週にはオーディション(こちらでは試演会や発表会のことをオーディションと呼ぶ)を控えており、もう1周間を切っているからだ(ということを知ったのは、欠席するという連絡を2週間目に入れた直後、先生からのメールの返信によってだった。そこには指の調子はどうかと様子を伺うような一文はなく、ただオーディションの開催場所と日時が事務的に記されていた。私が知る限り、フランス人の知り合いの中で彼が一番掴めない人物である。表情こそにこやかではあるのだが、温かみのようなものが感じられないのだ。分からないのはその原因がどこにあるのかということだった)。
私はそこで、モーツァルトのコンチェルト4番を弾かなくてはならない。
細かいテクニックの使い分けが要求される曲で、左手よりむしろ右手のそれの方が重要な役割を担っている。
楽器を替えたのかと思われる程音が変化しているのだから、勘を戻すのはたやすいことではないはずだ(まだ披露していない残りの3曲を弾くなどとは思ってもみなかったので、その日のレッスンでは全て初見だったのだ、ということを差し引いたとしても)。
それでも病気ではなく指の不具合である以上、無理な練習はできないのだし、やらなくてはいけないこともある(たとえば、このコラム)。
でも、待って。落ち着こう、思う。
間違っても素晴らしい演奏をしようなどとは思わないようにしよう。
出来る限りのことをするだけで上出来、ということにしよう。
試験ではないのだから構わないはずだ。
私は自分に言い聞かせる。

そのレッスンの後、どちらも予定がなかったので、ピアニストとカフェでコーヒーを飲んだ。
私はそこではじめて彼女がアルバニア出身だということを知った。
アルバニア、という国名は聞いたことがあっても、どこにあるのかということは判然としなかったのだけれど、大まかに説明してくれたことによると北に位置するのがモンテネグロ、東はマケドニア、そして南がギリシャだそうで、彼女のお父さんは遠い昔にギリシャからアルバニアに移住してきたのだと言う。
だから彼女はギリシャ語が話せる。というより、彼女の言語は豊富だ。
アルバニア語を母国語として、公用語として英語を、他にスペイン語とイタリア語、そしてギリシャ語。
フランスには去年の夏─ということは私と同時期に─に来たばかりなので、まだ話せないのだと言い、「でも約束するわ」とも言った。「いつの日か、あなたとフランス語で話すわ」と。
もちろんよ、と私は頷く。
フランス語はあなたにとって簡単なはずよ、と。
少なくとも私にとってのそれより難しくないはずだ。
語学には才能が必要だ、と思う。
それがどういう種類のものなのか、自分が持っていないので分からないのだが、数学に必要なそれと同じような、特殊な何か。
そうして語学を習得するときには必ず、言葉同士のやりとりの中でそれは行われるので、しばしば言葉というものが理解の邪魔をする、ということが起こり得る(と思う)。
たとえばフランス語では冠詞の使い分けがとても難しいのだが、なにしろ大きく分けて3つのカテゴリーに分かれている上に、それぞれに2つか3つの冠詞を携えているので、それを日本語で説明するとよけいにややこしく感じる。
冠詞を正確に理解するためには、はっきりとした目的を持ったシチュエーションおよびシュミレーションにおいて実際に使ってみるしかない、と思う。
カフェに行くのがいいかもしれない。
なぜなら、注文する時には必ず冠詞「un(ひとつの、ある)」を使うからで、正解がひとつしかないからだ(頼むものや言い方はもちろんなんでもいい、「コーヒーを下さい」でも、「紅茶がいただきたいんですが」でも)。
あるいはペットショップに行って、気に入った猫(または犬)を指さし、「その猫(または犬)が好き」だと言ってみる。
すると、そこで使われるべき冠詞は「le(その)」なのであって、間違っても「un」ではない。
そこで今度は、「私は猫(または犬)を飼っている」と言えば、その時こそ使うべきは「un(または複数形des)」なのだ。
さらに、「私は(犬よりも)猫が好き」と言ってみると「les(複数形)(~というものたち)」を使うのが一番自然だ(なにしろそこには何匹も猫がいるはずだから)。
重要なのはそこがペットショップであるという点だ。
使っているのがフランス語の冠詞である、という違いはあるものの、日本語で言うのとそう変わらないことに気づく。
好きだと思うのは「その猫」なのだし、飼っているのは「ある猫(たち)」であるはずだし、結局のところ「猫という生きもの」が好きなのであって、実際に複数の猫を目の前にするからこそそれらを「言い分ける」ことが成立する。
もしこれらのことを別の場所─たとえば語学学校の教室、参考書とノートを広げた机に向かった状態─で言ってみてもぴんとこないはずだ、少なくとも一度では。
英語が出来る人なら英語に当てはめて考えてもわかりやすいのかもしれないけれど、残念ながら私はそうではなかった。
このまま書き進めていくと参考書のようになってしまいそうだし、そもそも私はフランス人ではないのだから本当の意味で正しく理解していると言い切るのがこわいので、この辺りでやめておこうと思うが、何か国語も話すことができる人に会うたびに、それらのことを参考書によって理解しただけで使いこなせる特殊な能力の持ち主だ、と思ってしまう。
「アルバニア語で何か言ってみて」と彼女にお願いすると、何かひとことしゃべってみせてくれた。
とても綺麗な響きなので驚いた。
フランス語とは違う種類の綺麗さ、まるで子供用の玩具のピアノ(ちゃんとアップライトの形をしていて、軽い鍵盤を押すとぽろぽろとした音が鳴る)のような、あるいは球体の色んな色をした飴をバラバラと地面にまいたような、からっとした美しさのある響き。
知らないだけで、美しい響きを持つ言葉ってあるものだな、と思う。
他には実際に話されている言葉として聞いたのではなく、それは歌の歌詞として聴いたのだけれど、ヘブライ語も大変美しい。
空気にするすると溶けるような響きがする。
フランス語で自分の言いたいことが問題なく言えるようになったら、ヘブライ語とアルバニア語も勉強してみたいと思う。
使う機会はなさそうだけれども。
いつの間にか話が語学のことにすり替わっていることに、もちろん気づいている。
そうすることで少しでも不安を紛らわせようという魂胆もあるにはあるのだけれど、こうしてしなくてはいけない練習をおいて別のことに集中すると、なぜだかその後の練習が捗る。
たとえば今日は一日かけてしたいだけ練習をしよう、などと思えば、そもそもしたい気にもならないことが多い。
なぜなのか自分でもよく分からない。
したくなくてもぜひとも練習する必要がある今回のような鬼気迫る場合でも、これが朝起きてすぐに取り掛かる最初の仕事だとしたら、絶対に捗らない。
こわすぎる事に立ち向かうには、誠実に真正面から、などと考えたりしてはだめなようだ。
そういうわけで、これを書き上げたらヴァイオリンに向かうわけなのだけれど、その前にコーヒーを一杯淹れて煙草を喫い、ストレッチをして身体を目覚めさせる必要がある、と思い、今日の夕食用の買い物にだって行かなくては、とも考えている。
けれどもちろん、まず考えるべきなのは、適切な助言をくれる専門医を探すこと、ですね。