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2F/当番ノート

ぴりりと辛い

当番ノート 第54期

「生きている理由」というほど大げさでなく、「その後の人生を変えた」というほど劇的な出来事でもない。「最高の思い出」みたいなきらきらしたものでもない。

歴史になんてもちろん残るはずがないし、世間には見向きもされない。それどころか「自分史」にだって居場所があるか怪しい。

それなのに、「この自分」にとってはなぜだかどうしても重大で、代替不可能な出来事というものが、たしかにある。

強烈な生の実感をともなう、きわめて個人的な体験。のちに思い返したときに、その時期、その瞬間は自分にとって何かしらの「救い」や「きざし」のようなものだったのだろうと気づくこともある。

宇宙とか世界とか人生とかいった大きな大きな規模と比べると、指のあいだからこぼれ落ちていく砂粒よりももっと小さい、ほんとうにささやかな出来事だったりするから、うっかり忘れてしまったり、なかったことにしてしまったりする。

でも、そういった出来事たちがなければ今の自分がいなかったことは、おそらく確実なのだ。

それらの出来事たちを、なんと名づければいいのだろう。まったく思いつかない。思いつかないまま、そういった事例たちをこの連載で書いていこうと思う。

たとえば、こんなことがあった。

うな丼に救われたことがある。正確に言えば、うな丼と、山椒と、その香りに。

数年前、下落合に住んでいたころの話だ。私は西武新宿線下落合駅のホーム裏の古いマンションで暮らしていた。部屋の窓が駅のホームに隣接しているので、ほとんど駅の一部分という気分だった。当時の暮らしぶりは、以前ほかの記事で書かせてもらった

いまから思えば、私は疲れきっていた。

大きな失恋をしたばかりで恋人もなく、恋人ができる気配もなく、仕事は充実しているといえばそのとおりだし不満はなかったけれど、目の前のことに追われまくるとそりゃあ人間だから疲れるし、部屋にはあろうことか例のあの虫――つやつやとした黒かったり茶色だったりするすばしっこいあの虫が2日に1度のペースで現れるので、そのたびに私は氷のような心でそいつらを殺してしまう。

さらにその部屋の水回りが最悪で、バストイレ同室のユニットバスの浴槽でシャワーを浴びるとトイレ側のほうに水が溢れてきて、1時間半くらい流れていかない。おかげでパイプまわりの洗剤に詳しくなった。

なにか大ごとがあったわけではない。ただ、日々じわじわと蓄積されていくものがあった。繰り返し引っ張られてだるだるになってしまったゴム。ドライバーで回すための頭の溝が潰れてしまったネジ。当時、私の精神はそういうものに似ていた。

ある日、仕事帰りに高田馬場の西友からウナギの蒲焼きを買ってきた。土用の丑の日だった。世間並みの生活を送っているかのような感覚を、すこしだけでも授かろうという魂胆だった。

無感情のままウナギの蒲焼きを電子レンジで温めて、どんぶりによそった温かいごはんの上に乗せる。パックに同梱されていた小袋の封を切って山椒を振りかける、そして山椒の匂いが鼻腔に広がったその瞬間に、幸福感がじゃぶじゃぶと溢れ出た。と同時に、気づかないうちに自分を囲い込んでいた暗い殻のようなものが音をたてて割れ、突然まぶしい光が差したような気がした。

いまとなっては、なぜそこまで突き抜けた幸福感があったのかわからないのだが、なんと私はそのとき地球上の全生命に肯定されていることを感じていた。そして地球上の全生命を肯定していた。ああ、生まれてきてよかった。この世界は美しい。私を生んでくれてありがとう。ありがとう世界。ありがとう、うな丼。ありがとう、山椒。ありがとう、ありがとう、ありがとう。涙が出そうになるほど幸福だった。

それはもはや、「救済」とかいうものだったのかもしれない。ぼうっとしていたら、うな丼と山椒に救われてしまった。スーパーから買ってきたやつなのに。パックに入っていたやつなのに。

食べ物の香りがこれほどまでに心を揺さぶるとは、思いもよらなかった。ちなみに、そのとき食べたうな丼の味は、まったく覚えていない。

その後、2度引っ越した。浴槽に水を流しても床が水浸しになるようなことはなくなったし、名前を呼びたくないあの虫もここ数年家で見たことはない。

ニホンウナギが絶滅危惧種に指定されたという話もあって、食べていいのか駄目なのかはっきりわからないまま、ウナギをほとんど食べなくなった。

それまで気にしていなかった山椒や花椒を特別視するようになり、機会があれば意識して摂取するようになった。調べてみると、山椒は数千年前から日本で食べられていたらしい。いにしえの人々も、私と同じような幸福を感じ取ることができたのだろうか? むしろ現代人よりも身近に感じていたのだろうか?

あの高揚するような強烈な感覚は、いまのところよみがえってはこない。あれは一度限りの体験だったのだろうか。いやいや、嗅覚に感情が揺さぶられる体験は偶然の事故のようなところがあるから、意識すればするほど離れていくものなのであろう。ならばいっそ忘れてみよう、とは思うものの、なかなか難しい。人の記憶はままならない。

いまは残り香を頼りに、あの日うっかり見つけてしまった幸福のすみかへの再訪を夢見るばかりだ。

佐伯享介

佐伯享介

青森県出身。SFと文学と犬と猫が好き。

Reviewed by
辺川 銀

たとえば夜のスーパーで安売りされていた上等でも出来たてでもないお惣菜の味に感動して泣いたことがあるひとのことを信頼したいと思う。それを美味しく感じた夜がどんなに深い暗闇だったか想像できるから。

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