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2F/当番ノート

父ちゃんと母ちゃんのこと

当番ノート 第24期

父ちゃんと母ちゃん。一緒に写っているのは、石垣島で珈琲農園を営む大学の先輩、武田さん。

父ちゃんと母ちゃん。一緒に写っているのは、石垣島で珈琲農園を営む大学の先輩、武田さん。

父ちゃんと母ちゃんの馴れ初めの話が好きで、友達にも今まで何度か話してきた。

沖縄本島の北部にある今帰仁村(方言では「やんばる」ともいう)で10人兄弟(5男5女)の七番目、三男として生まれた父ちゃんは、昔から勉強嫌いで、仲間とやんちゃばかりしていたそうだ。他の兄弟はマジメな人が多く、大学を出て、地元の銀行に勤めたり、学校の校長になった者もいるが、父ちゃんは、高校を出たらすぐに、家を飛び出して、土方仕事などをしながら、各地を放浪する。一時期、滞在した九州の小倉は第二の故郷だと何度か言っていた。父ちゃんは「男はつらいよ」の寅さんが好きだと言っていたが、そう言われてみると、たしかにどこか寅さんに通じる雰囲気があるかもしれない。実家の古いアルバムには、黒いサングラスをかけて、ヘルメットをかぶり、大型のバイクにまたがった父ちゃんが、北海道の宗谷岬で写っている写真がある。国内を旅して回った後、再び沖縄に戻ってきた父ちゃんは、八重山諸島にある西表島に渡る。そこで、出会った「イリオモテのターザン」こと砂川恵勇おじいの生き方と人柄に惹かれ、海で魚を、山でイノシシを獲りながら、しばらく半自給自足のサバイバル生活を送る。恵勇おじいの作った掘っ立て小屋で、一緒に泡盛を飲んで過ごした時間は、父ちゃんの人生のよき思い出となっている。結婚して家庭を持っていなかったら、きっと今でも西表で悠々自適のキャンプ生活を送っていたことだろう。

イリオモテのターザン
http://jaima.net/modules/guide6/content/index.php?id=113

母ちゃんは、島根県の松江市から車で20分ほどの片江という港町で三人姉妹の末っ子として育った。じいちゃんは、明治大学を出て、検察官になった人で、戦争中は特攻隊に所属していたが、あわやというところで終戦を迎え、出陣を免れたそうだ。家父長的な父親から早く離れたかった母ちゃんは、高校を出ると東京の女子短大に進学する。短大卒業後は、書店に就職し、たまたま見つけて読んだインドの本に惹かれ、単身インドに渡ろうとするが、40年近く前の状況では、無事に生きて帰れる保証もなく、心配したばあちゃんに泣きつかれ、やむなく断念したそうだ。
母ちゃんも若い頃はバイクに乗って各地を旅していて、あるとき旅人の知り合いに、「今度は南の方に行ってみようかと思う」と話したら、「石垣島にシマさんっていう寡黙ないい男がいるからぜひ訪ねてごらん」とすすめられる。言われるがままに、石垣島まで足を伸ばし、全国からキャンパーが集まる有名な米原キャンプ場に「こちらにシマさんって方いますか?」と訪ねていくと、仲間と陽気に飲んだくれる、それらしき男が現れた。酒が入れば、歌い出したり、踊りだしたりで、「聞いてた話と違うなあ」と思いつつ、シマさんに興味を惹かれた母ちゃんは、しばらく石垣島に滞在することにした。これが父ちゃんと母ちゃんの最初の出会いだ。ちなみに、シマさんというのは父ちゃんの昔からの愛称で、島酒(しまざけ、泡盛のこと)が大好きで、毎日のように飲んでいたので、いつからか、みんなにそう呼ばれるようになったそうだ。

その後、行動をともにするようになった二人は、サトウキビの島、南大東島でしばらくキビ刈り生活をしてお金を貯め、インドや東南アジアを旅して回った。そんな中で、母ちゃんが僕を授かり、旅に暮らしてきた二人は、気に入った石垣島に腰を落ち着けて、家庭を築いていくことになる。
こうして書いていても思うが、僕が旅や、旅人の自由でアウトローな生き方に憧れるのは、両親の影響がやっぱり大きいと思う。両親と比べると、いまだに海外には行ったことがないし、国内も自転車で一度、東京から鹿児島まで行ったぐらいで、たいした旅はしてきていない。でも、おそらく、それはどこそこに行った、行ってないとかいう話ではなく、生き方のスタイルの問題なのだろう。社会や組織に染まらず、個として、自分の責任で、好きなように生きてきた両親の生き方は、見ていて気持ちがよいものだ。もちろん、大変なこともたくさんあったと思うが、自分で決めたことの結果をきちんと引き受けて、文句は一切言わない。僕は、そんな両親の生き方が好きだ。

幼い頃は当たり前で意識していなかったが、多少年を取り、様々な家族の有り様を知るにつれて、自分は幸せな家庭で育ったんだなと思うようになった。たまに母ちゃんが父ちゃんにぶつぶつ文句を言うことはあっても、夫婦仲が悪いようには見えなかったし、親子関係にも、とくに問題が生じたことはなかった。僕は結構、放任気味に育てられたので、今思うと、両親からのわかりやすい愛情表現に飢えていた気もする。たとえば、休みの日に庭で父ちゃんとキャッチボールをするだとか、家族でドライブや旅行に行くだとか。そういったことはほとんどなかったので、ありがちな家族像と比較して少し寂しく感じることもあったが、目に見える問題がなかったということだけで、充分幸福だったんだなと今は思う。
父ちゃんも母ちゃんも、僕に何かを強制したことは一度もなかった。大学に行け、なんて一言も言わなかったが、僕が地元で浪人をして失敗し、東京で予備校に通って、もう一度チャレンジしたいと言ったときは、僕の意志を尊重してくれた。決して裕福な家ではないのに、東京の私立大学に4年(留年したので正確には5年)も通わせてくれた。にもかかわらず、就職もせずに卒業してふらふらしている僕にたいして、いろいろと言いたいこともあるだろうけど、僕のあり方を根本的に曲げるようなことはあえて言わないようにしてくれている気がする。
学生時代、実家から送られてくる荷物の中には、だいたい母ちゃんからの手紙が添えられていて、本質を突く鋭い言葉が綴られていた。「東京は息をするだけでお金が無くなっていく。何をするにもお金が必要」「客寄せパンダになってませんか?」「他人のふんどしでばかり相撲を取らないように」。厳しく聞こえる言葉の中にも、どこか温かみが感じられた。そんな両親の優しさに今もどこかで甘えてしまっているのかもしれない。

親の期待やプレッシャーに子どもは無意識に応えようとしてしまう。親に反対されたら、自分のしたいこともできないし、したくないことを嫌々させられることもある。それに比べて、僕は本当に、好きなように、のびのびと育ててもらったように思う。僕は「悠生」という自分の名前がとても気に入っている。両親の願い通り、これまで悠々と生きて来られたのは、必要以上に干渉せず、僕らしさを失わないように育ててくれた両親の愛情だと思っている。地元にいた頃は気づかなかったが、親元を離れた今はそう感じる。今はいろいろと心配をかけてしまっているので、僕が自分で決めた道を笑顔で、元気に、堂々と歩んでいく姿を両親に見せて、早く安心させてあげられるようにしたい。

P.S.
縁あって石垣島に移住することになった大学時代の先輩、世一さんが、現在、僕の地元の崎枝で奥さんと暮らしながら、小説を書いていてる。彼が、島での生活をブログに綴っていて、以前、父ちゃんについて書いてくれたことがあるので、よければ読んでみてください。

 僕はシマさんの歌が好きです。
 彼は感情が高じるとすぐ歌を歌うのです
が、
 それが本当に、歌を歌いたいから歌ってる
んですね。
 褒められるとか場を沸かせるとかではな
く。
 ただ歌が発するというか。

 オヤジの無骨な友情。どやしつけと礼儀
 http://urx.blue/qq6N

実家は父ちゃんと母ちゃんが友達に手伝ってもらって手づくりで建てた。

実家は父ちゃんと母ちゃんが友達に手伝ってもらって手づくりで建てた。

実家の屋上。夜は酒盛りができる。

実家の屋上。夜は酒盛りができる。

庭の前にはサトウキビ畑が。

庭の前にはサトウキビ畑が。

畑では父ちゃんがニンニクやらっきょ、島バナナなどを育てている。

畑では父ちゃんがニンニクやらっきょ、島バナナなどを育てている。

大学の先輩夫婦が遊びに来てくれた。家族みたい。

大学の先輩夫婦が遊びに来てくれた。家族みたい。

第三回のキャン語りをしてくれた郷さんと。

第三回のキャン語りをしてくれた郷さんと。

連載もぼちぼち終盤。第七回目のキャン語りは予備校時代からの友人、町田にお願いした。町田とは、いわゆるくされ縁というやつになるのだろう。最初のきっかけは覚えてないけど、気がつけば、いつの間にか仲よくなっていた。今は大学を卒業して、地元の静岡に帰っているが、付かず離れず、変わらぬ友情を保ち続けている。ある人間同士の間に友情が成立するとき、その理由について深く考えることはあまりないが、よくよく考えてみれば不思議なものだ。親友ができなかったことで、空しい気持ちを抱えていた高校時代の僕を振り返ると、これから先も長い付き合いをしていきたいと、たがいに思えるような友人と、こうして出会えたことは、ありがたいことだなあとあらためて思う。

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「いや〜〜、・・・オトナにはなりたくないもんですね、町田くん。」

 2007年8月14日、当時都内のとある予備校にて浪人生活を送っていた喜屋武悠生は、10代最後の日を迎えていた。得意のセンチメンタルトークで去り行くコドモだった頃の自分を振り返ると同時に、これから訪れるであろうオトナとして生きていかなければならない日々や義務、社会からの要請に抗うかのように僕にそう語った、というよりぼやいてきた。いつものように。そして、喜屋武悠生はその夜、自宅のある西武柳沢の夜空のムコウへ叫び願ったという。「オトナになりたくない」と。あの時の願いは、あの日から約8年経った今でも幸か不幸か叶い続け、キャンをキャンたらしめるキャン的な何かの中核的なモノになっている。

 高校卒業後上京し、目の前に存在する現実と向き合うというより、いわゆる期待や夢といった‘‘可能性”溢れる日々を夢想し、ただそれらを消耗していた僕は、都内で過ごす2度目の春を好きになれずにいた。キャンをはじめて目にしたのは、予備校の教室で、キャンは春の授業開始間もない頃から席の最前列に座っていたことを覚えている。僕は可もなく不可もない時間帯に席につき、ぼーっと座っていると、時間通りにはまずやってくることのない、髪の廃れた現代文の講師がやってきて授業が始まる。いつも通りの、ささやかな日常の始まりである。しかし、授業が始まりしばらくすると、突如キャンは、授業の進行の流れを気にすることなく、顎に両手をつきながら講師にぶつぶつ質問を投げかけ続けたのである。なんか厄介なやつに絡まれたなと言わんばかりの顔で講師は応答していた。
「・・・こいつは、ヤバいヤツだな。」と直感的に違和感を抱いた僕は、授業終了後遠くからヤツを観察してみた。するとどうだろう、ヤツの名前は喜屋武(最初は き や ぶ と読んでいた)。見たところファッション性は皆無で顔には無精ひげをデコレーション、年齢不詳、清潔感はあるかないかと言えば、ない。オマケにおそらく極度のKYときた。
「人は見た目が9割」というフレーズがある程度世に浸透していた頃において、キャンの外見に抱いた僕の印象は、まさに全力空振り三振ゲームセットであった。元来人見知りということもあり、他人の姿格好や価値観に対してあまり寛容ではなかった僕は、キャンに対する違和感をちょっとばかしの嫌悪感に変え、「あいつには、近づかんでおこう。」と胸の中に小さな誓いを立て、その場から離れた。
だが、所詮は寝ては忘れてしまうような小さな誓いだったのである。キャンはいつの間にか僕にとって予備校内で最も親しい友人の1人となっていた。今考えてみても全くもって謎であるが、おそらく考えられるのは、当時からキャンは自身の意図の有無に関わらず、あるコミュニティ内におけるハブ的存在として機能し、キャンが好奇心を抱いたりキャンと通じる何らかの要素を持っている人やモノを強烈に吸い寄せる力があったように思う。キャンのもとに集まる人間は当時から個性的だった。当時、彼と同じ寮に住んでいた男気溢れるミーアキャットのような男をはじめ、これまた年齢不詳のスキンヘッドで弁護士を目指していたお兄さん、小説家志望でLed Zeppelinをこよなく愛するメガネをかけた男、栃木出身のドヤンキー、その他にも自己主張のやたら強いオタクやゲイなどといった充実したラインナップである。皆が皆一緒に集まる機会は少なかったけれども、キャンを通じて出会った人や本は、当時から現在にかけてみるとそれなりの数である。
喜屋武悠生との関係を振り返った時に、改めて友情とは一体何なんだろうと考えさせられた。「友情」という単語を見ると、愛と青春の日々を駆け抜ける輝かしくもあり割と暑苦しい景色が連想されるのであるが、僕と喜屋武悠生との関係はそれらのイメージとは少し違う。
気まぐれに会い、酒を呑んでは、避けて通れぬ男女の道について語り合い、たまに唄う。
最近は仕事と将来の話が多いだろうか。付かず離れずの距離感でこれまでなんとか関係性を保ってきたが、互いにこれまでとは違ったステージに立ちつつあることは確かである。
予備校時代の恩師、川田拓矢先生曰く、「友情の本質は、全肯定である」。僕は川田先生が仰ってることが全て腑に落ちてはいないけれども、彼との関係性を通じて、この言葉の持つ意味を少しずつ深めていきたいと思う。それが、僕の世界を広げてくれた彼への恩返しでもあるのだ。恋人や友人というものは、多くの場合、過去の記憶の中に宿るものではあるけれども、現在、そして未来に繋がり得る関係を持てる人間がいてくれるというのは、とても幸せなことではないか、と僕は思うのである。

町田 慶二

ペニー

喜屋武 悠生

喜屋武 悠生

1987年8月15日生まれ。沖縄県石垣島出身。2浪1留を経て早稲田大学文化構想学部を卒業。3年のひまんちゅ生活後、28歳ではじめての就職。求人広告の代理店で約2年間の営業マン生活を送る。現在は、墨田区の長屋でシェア生活をしながら、友人と2人で立ち上げたソーシャルバーPORTOを経営してます。

Reviewed by
大見謝 将伍

“自分で決めたことの結果をきちんと引き受けて、文句は一切言わない。僕は、そんな両親の生き方が好きだ” ー わたしは、父や母の「家族史」をどれだけ語れるだろうか。次へ引き継げるだろうか。

「灯台下暗し」の究極は、もしかしたら、身の回りにいる家族について知らないことかもしれない。当然のように、自分が生まれたということは、父と母がいて、その2人が各々に歩いてきた道程のなかで(偶然なのか運命なのかどちらかは本人たちに託すとして)出会い、関係を深めていき、家族になった。ちゃんと軌跡がある。

彼/彼女が、どんな時代に、どんな場所で、どんなことをしていて、どんなことを想いながら、暮らしてきたのか。そのストーリーに向きあうことは、自分に向きあうことそのものであって、ルーツを掘りおこすことで見つかる”潜在的個性”は、その自分の未来をつくる種でもある。

また、父として母としてでなく、一人の人間として、彼/彼女を見つめる機会にもなるだろう。もしかしたら、愛情をいったん切り離して、客観的に眺めてみることで、新たな関係性も築けるかもしれない。

まあ、何はともあれ、知らずにずっと過ごしていると、知りたくても知れない、という失った状態になってからでは遅いわけだ。ちょっと考えてみてほしいのだけど、親とともに暮らしていない人は多いなか、「あと、親に何回会えるのか?」という回数計算をしたことはあるだろうか。

地方出身で、都会で生活している人は、年に何回地元に戻るのか、計算してみると、実は100回もない、なんてことはザラじゃないか。家族史を知るための時間は、限られている。そんな意識を、ほんの少し持ってみるだけで、急に、父や母が愛おしくなったりするもんで、ほんと家族という存在は不思議なんですよね。

家族を想う、喜屋武さんは、友人にも想われている。

“友人というものは、多くの場合、過去の記憶の中に宿るものではあるけれども、現在、そして未来に繋がり得る関係を持てる人間がいてくれるということは、幸せなことではないか、と僕は思うのである。”

家族とか友人とか、自分自身のことじゃないけど、他人という範囲のなかでは限りなく自分自身に近い存在について考えるための時間として、じっくりと噛み締めながら読めたらいいかもです。この記事。

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