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2F/当番ノート

一粒万倍日のこと

当番ノート 第54期

「一粒万倍日」というものが、暦にあるらしい。

2020年のうちに婚姻届を出したいね、と同居人と相談していたものの、二人の記念日もだいたい終わっていたから、いつ出してもよくない? となっていたところに、同居人の友人から教えてもらったのが「一粒万倍日」だった。正確に言えば「一粒万倍日かつ大安の日」だ。なんだそれ。

調べてみると、大安や仏滅などの六曜とは別の暦注で、一粒のモミが万倍の稲穂に育つように、小さな物事が大きくなるとされている日、それが一粒万倍日なのだそうだ。縁起のよいことをするにはとてもよく、よくないことをするにはとてもよくない日、らしい。

そして一粒万倍日かつ大安の日は、とてもとても縁起がよいらしい。なんと大安のポジティブ効果が万倍になってしまうのだ。恐ろしいくらいに縁起がよい。ならばそれにあやかろうではないか。その日にしよう、それでいいね。そんなふうに目標の日を決め、ばたばたと書類を揃えて世田谷区役所の北沢支所に提出しにいった。帰り道、年末ジャンボ宝くじを買った。

婚姻届をミスしないように注意深く記入していったときのペン先が震えそうな緊張感や、届を受理してもらったときの安堵感ももちろん記憶に残るのだろうけれど、提出しにいく日を決める瞬間に感じた、根拠がないのに腑に落ちてしまったような不思議な感覚が忘れられない。なぜだろうか。

もともと縁起をかつぐ性格ではなく、むしろ「大安の効力は日本の裏側である南米でも通じるのか」とか「六曜と交通事故死者数の関係をデータ化して検証してほしい」とか「世界各地に伝わる縁起のよい日と悪い日をひとつにまとめたら毎日がよい日であり悪い日になってプラマイゼロになるんじゃないか」とか考えてしまうような性格である。

そもそも暦とか縁起とかいうものはめんどくさい。大凶の日にはあれをしちゃだめ、友引の日にはあれをしちゃだめとか。いや予定その日しかあいてないんで……といった現実的な主張より強かったりする場合もあるから厄介である。

だからといって、暦や縁起の良し悪しをまとめて否定するつもりもない。迷っているとき、なにかを決めたり進めたりするきっかけになったり、背中を押してくれたりすることもある。

「一粒万倍日」という言葉が気に入ったことも、腑に落ちた理由かもしれない。「一」が「万」になったらそりゃあすごいよね、というわかりやすいお得感。と同時に、この一粒、この小さきものが大きく育ってくれますように、という、いにしえの人々の農耕民族らしい切実な願いもひしひしと感じるではないか。

事実、そんな小さな一粒ひとつぶ、小さな出来事たちが自分の人生に大きな影響を与えてきたことを、私は知っている。

「生きている理由」というほど大げさでなく、「その後の人生を変えた」というほど劇的な出来事でもない。宇宙や世界や人生のような巨大なものと比べると、指のあいだからこぼれ落ちていく砂粒よりももっと小さいスケールだけれど、自分にとっては大きな意味をもつ出来事。

この連載では、そんな出来事たちについて書いてきた。私が一粒万倍日に婚姻届を出すことに不思議と納得してしまったのは、きっとこの連載があったからだと思う。もし書いていなかったら、一粒万倍日ではなくて別の「とても縁起のよい日」に提出していたかもしれない。天赦日とか。

これから結婚記念日のたび、一粒万倍日のことを思い出し、この連載のことも思い出すのかもしれない。

婚姻届を準備している期間中、同居人とふたりで、2020年に結婚する理由について話した。新型コロナウイルスの影響で世界が大混乱して、たくさんの人たちが苦しんだり、亡くなってしまったこと。ずっと忘れられない、ほんとうに大変だった一年の最後に、私たちが私たちのために私たちにとってハッピーなことをする。それは素敵なことではないだろうか、と。

付け加えて、同居人は2020年に結婚する理由としてこんなことを主張した。

「2020年って覚えやすいじゃない。何年たっても結婚何年目か計算しやすいでしょう。だから、2020年がいい」

なるほど。非常に現実的である。この人と結婚できて、私はラッキーだなと思った。

さて、その後の結婚生活はどうかというと、これまでの同棲生活とあまり変わりはない。婚姻届を一枚出したくらいで、個人と個人の関係が劇的に変化することはないのだ。これから時間をかけて、私たち自身と、この社会のゆるやかな変化を感じていきたいと思っている。一日一日の小さな出来事や言葉たち、小さな喜怒哀楽が、やがてよりよい何かにつながっていきますように。万倍になってほしい、などとぜいたくを言うつもりはないけれど。ちなみにあの日に買った年末ジャンボ宝くじは全部外れた。

佐伯享介

佐伯享介

青森県出身。SFと文学と犬と猫が好き。

Reviewed by
辺川 銀

暦や験担ぎは祈りのためのものだ。旅立つ前夜に念入りな準備をして、それでもなお良い旅の為にできることがないか探した時、「こんなふうに験を担げばいい」と教えてもらえたら、安心して眠りにつけると思う。

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