窓辺の女たち

長期滞在者

Evernote Camera Roll 20140727 165326

 先日、仕事の帰り道にどこからともなく人の話し声を聞いた。どの家から声が降ってきているのかわからなかったが、開け放たれた窓から、女性が笑いながら話している声が聞こえるのだった。そのとき、ふとナポリを訪ねたときのことを思い出した。
 
 ナポリ旧市街、スパッカナポリの下町を歩いていたときのこと。狭い路地裏をきょろきょろ見回しながら、わたしはどこからか聞こえる無数の笑い声に気づいた。ふと見上げると、背の高いアパートメントのベランダで、旅行客を見物する女性たちの姿があった。若い女性だった。キャミソール一枚に、ミニスカート。下から覗いたら下着が見えてしまいそうな出で立ちだった。その女性は、隣人とベランダごしにわいわい、雑談に花を咲かせている。下を通る人々の視線なんてまるでおかまい無しだった。

 よくよくみてみると、建物の間をジグザグに縫う洗濯紐の間から、いくつもの顔が覗いている。女性たちがベランダ越しにコミュニケーションをとっているのだった。おばあさんもいれば、若い人もあった。笑っている人もいれば、怒っている人、ずっと黙ってベランダに立ち続けている人、じっと通り過ぎる人々を眺めている人もいる。わたしは、その女たちの日常生活をのぞきみて、少しどきりとした。路地裏の活気とは、別の次元の、日常の営みがそこにはあった。わたしには、無数の旅行者むけの商店を眺めるより、窓辺の女たちの話に耳を傾けるほうがいっそう面白かった。彼女たちの話をなんとなく盗み聞きしながら、それぞれの顔を眺めて歩いた。この感じ、知ってる。わたしは、懐かしさを感じていた。

 ナポリの街で思い出していたのは、大西洋のむこうの更に南の街でのこと。生まれ故郷の町中で出会う、窓辺の女たちのことだった。たまに、町中をふらふらと出歩いているとき、必ず窓から顔をのぞかせて、窓枠に寄りかかりながら、町行く人々を眺める女性の姿を見かけていた。通行人と話をしたり、隣人と挨拶をしたり、それぞれやっていることはまちまちではあったが、いつだってどこかにそういう女性が数人はいたのだった。わたしには、彼女たちがなんのために窓辺にいるのか、なにを考えながら窓辺にたたずんでいるのか、夢想するのがとても好きだった。彼女たちの脳内で起きていることを、ああでもない、こうでもない、と妄想に妄想を重ねながら、横目でじっと観察するのが常だった。

 だけど、そういう窓辺の女たちの前を通り過ぎるとき、決まって一瞬の緊張感がわたしを襲った。妄想による、罪悪感に似た感情のせいなのか、それともいま、話しかけられたら?というような不安からくる緊張なのかは定かではないけれど、内心ヒヤヒヤしながら、心無しか早足になるのだった。そのとき、窓辺の女性の目は、前を通るわたしの歩く速度に合わせて動いた。息がとまる。視線が肌を焼き、ほんの一瞬のことが、とても長い間に感じる。通り過ぎて、心底ほっとする、と同時に、さきほどまで感じていた焼けるような視線から解放されるのだった。振り返ると女性は、もう既に別の人を目で追っているのだった。わたしはその度に、なぜか複雑な心境になった。不思議なことだけれど、わたしにはそれがちょっと寂しく感じられるのだった。あの場で、窓辺の女性の目を見返していたら、あの場で話しかけていたら、別の物語が生まれていただろうか。それもとも、それそこ永遠に訪れない妄想だろうか。

 わたしは、窓辺の女性たちが、窓の内側から、外側の人々をずっと観察していることに気づいていた。その目的がなんであれ、家の中で暮らす女性たちにとって、窓辺は外の世界に通じている小さな小さな出入り口だった。コミュニケーションのために人の家へ出向いていくのが億劫でも、ベランダ越しや、窓辺越しでなら自分のペースを崩さずにいられる。家の中が綺麗に整理されてるかとか、コーヒーの甘さなどを気にする必要もない。誰にも気を使わず、自分のペースでそこにいられるのが、窓辺の最大の魅力だったのかな、と今になって思う。窓を通して家に入ってくる、他者の姿や、様々なゴシップを、窓辺の女たちはむしゃむしゃ食べて、日々の肥やしにする。それらの話の種を、また隣人同士で共有しては、お互いの話をむしゃむしゃとむさぼるのだ。多分、彼女たちにとって、路地裏の歩行者たちはおいしいおいしい話の種だったのだろう。彼女たちもまた、目の前を通り過ぎる人々の内実を夢想しては、好奇の目をむける傍観者だったのだと思う。