虹のふもとにある予感

長期滞在者

 先日、引っ越しの手伝いをすることになった。晴れたり雨が降ったりと、定まらないお天気で、空はどんよりと暗いところもあれば、光が射して眩しいところもあった。平べったいアーチの虹がふたつ浮かんでいて、はっきりと虹の出ているところがみえた。子どものころ、虹のふもとには宝物が眠っていると聞いたことがある。だけど、虹は自分がいる場所によって見えたり見えなかったりするし、動いたら出ている場所だって変わるじゃないか、そんなにたくさん宝物が埋まってるわけないよね、って子どもながらに疑問だった。今でも、その当時抱いた疑問を思い出しては、一瞬もやっと気持ちが曇る。

 荷物を運ぶ車の後ろを、別の車に乗って追いかける。後部座席から、ぼんやりと外の風景を眺めていると、イズミヤの近くにあるお寺に目がいった。そのお寺の入り口の前には黒板があって、いろいろなことが書いてある。その日の言葉はなんだろう、と思った瞬間、黒板の白文字が目に焼き付いた。

ー苦しみから逃げだすと 楽しいことから遠ざかる— 

 ああ、そうだな、そうだよな、そうなんだよな。しばらくその言葉が頭の中を行き来して、ぐるぐるぐるぐる巡っていた。同乗している人たちに、こんなことが書いてあったよと言おうとしたけれど、不思議と口から出てこなくて、話す機会を逸してしまった。宙ぶらりんの気持ちの中で、蛇みたいにうねうねと、白い文字だけが動き続けていた。

 なにかを心から楽しむことが、わたしは昔からとても下手だった。楽しいことがあっても、頭のどこかで普段感じてる不安や悩みが、俺はここだよ、とでも言うように顔を覗かせてくる。その瞬間、楽しさ自体がもともとそこに存在していなかったと思えるほど、綺麗に消えてしまうのだった。不安に肩を抱かれながら、またこれかよ、って嫌になるのほど冷静で、冷たいこころの自分だけが残る。だからこそ、お寺の黒板の文字の意味がよくわかった。

 苦しいことは、日常のなかにたくさんある。だけど、一番苦しいのは、未来が見えないこと。見えない未来のために、何をしたらいいのかわからないこと。「いつかきっと見えてくるだろう、いつかきっとわかるだろう」そう悠長に待ち続けていても、そのいつかはなかなかやってこない。
 昔からそうだ。わたしはいつも同じことをぐるぐると考え続けている。考え続けているようで、本当は考えていないのかもしれない。自分の足の先に広がる景色が、霞にまぎれて何も見えない。息を吹きかけたり、手を伸ばしたり、前が見えなくても足を動かしたりすればいいのだろうけれど、それができなくて結局立ち止まったままでいる。その姿勢のままでいることを忘れて、前に進まなくちゃいけない度に、ああだめだって気持ちが折れる。その場に座りこむ。そんな状況で、なにかを楽しむなんて、はなから不可能なことだった。

 きちんと、苦しいことと向き合わなくちゃいけない。自分を叱咤する。ただでさえ、生きるのは難しいのだから。そう思う。そう思ってはいるものの、なかなか苦しさと面と向き合うのは骨が折れることだ。半年先、一年先のこと、もっともっと先のことも考えながら、不安なことをできるだけ減らしていけるようにしないといけない。毎度同じことの繰り返し。これは、わたしにかけられた呪いなのかもしれない。今まで、数日先の自分がどこにいるのかわからない状態で生きてきた。帰る、帰る、と何度も聞かされては、それがなかったことのように取り消され、明日がどうなるのかわからないまま同じ場所に居続けなくてはいけなかった。この生き方は、不本意ながら、骨の髄までわたしを蝕んできたのだろう。でも、今更他人のせいにはできない。したところで何かが変わるわけでもない。わたしは、不安と戦う術を持たないまま、この先も流されるままに生き続けていくのだろうか。100%なにかを楽しめる日がくるんだろうか。楽しさが私の肩を、腰を抱きとめて離さないときがくるのだろうか。それがたとえほんの短い間でも。

 車の窓から見えた虹。綺麗なものがただ綺麗であることを、ありのままに楽しめなかったのは大人の自分だけじゃなくて、子どもの自分もそうだったんだね。あの複雑な気持ちは、今思えば予感だったのかもしれない。