足りない

長期滞在者

 いまのわたしには、足りないものがある。ことばも、気遣いも、なにも必要のない、まっしろになれる時間を、いつのまにかどこかに置き忘れてきたらしい。Guarulhosを離陸した瞬間、空からどこかの海に落っことしてしまったのかもしれない。いまは、その術さえおぼろげで、どうやってまっしろになっていたろう、って、そんなことしか考えられない。絡まり合った、真っ黒い糸の塊、ぐちゃぐちゃで、糸端がどこにあるのかわからないから、気ばかりが焦って、いらんとこ引っ張って、糸がもっともっと絡み合っていく。もしかしたら、もう、一本の美しい糸には戻らないかもしれない。

 高校生のころ、ことばにも、気遣いにも疲れたわたしには、行く場所があった。夕暮れどきや、真夜中に、部屋の窓から裸足でテラスに飛び出して、身の回りの音や、色に全神経を集中させて、変わっていく一瞬一瞬の、自然の表情を全身でとらえようとしていた。ひとりのときもあったし、弟がとなりにいるときも、母がとなりにいるときもあった。だけど大半は、わたしの大きな大きな相棒、飼い犬が、わたしのとなりに寄り添って、ふたりで流れる時間を傍観していた。

 ことばがいらないことの、尊さを知ったのはそのときだ。普段わたしたちは、いろんなことをしゃべりすぎる。わたしは、いま、かなしい、つらい、くるしい、こわい、たのしい、うれしい、感動してる、疑問に思う、好き、嫌い、いろんなことを話しすぎて、話すことが義務みたいに思えて、どれだけ話せるかが大事とさえ思うことがある。だけど、実際はそうではないことを、わたしは知っている。でも、すぐにそれを忘れてしまう。いまは、ことばがいらない瞬間がみつからないから。

 木々が風に揺れる音や、無数の虫や鳥、森の中に潜む動物達の声や、気配、迫り来る夕立や青臭い草刈りの匂い、日の光に透ける、緑の鮮やかさや、ひんやりと冷たい樹の幹の逞しいごつさ、月明かりのまぶしさ、自分の影の深い深い青さを、ただ感じるだけの時間なんて、いまでは遠い昔の夢みたいに思える。こういった現象は、いくらわたしがどんな気持ちでいたとしても、どんなくそみたいな行いをしていたとしても、無限の美しさと、雄大さと、安心感を与えてくれた。自然のなかで、まっしろになったわたしに、いくつもの綺麗な色を塗り直して、裸足でもまたのしっと立ち上がって、小さくても前進していく魔法をかけてくれた。その魔法には、まじないのことばすら必要なかった。

 だけど、いまのわたしは、どうだ。まっしろになるどころか、裸足になる勇気さえない。小さな箱の中で、ぎゅうぎゅうに縮こまって、まっくろい小さな小さな石の塊みたくなっている。なにも見えず、なにも聞こえず、手足も不自由で、もとは、一本の糸だったはず、とどこかで思いながら、見つからない自分の糸端を、まるい身体のそこかしこに触れながら探してる。つらい、こわい、そんなことばかり言って。しゃべりすぎなんだ。しゃべりすぎて、酸素が足りない。余白が足りない。声も出ない。ことばを捨て、まっしろになりたい。ほんの数分でもいい、輪郭線だけになって、影がするりと軽くなる瞬間がほしい。いまはなにも、話したくない。