Body in Clothes - Roxane Gayの” Hunger “を読んで –

長期滞在者

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 わたしは服をつくるのが好きだ。事実、日常的に身につけているワンピースは、すべてミシンを踏んでつくったものだ。服をつくると、心底楽しいし、わくわくする。服をつくる前の工程も楽しい。何色の、どんな布で作るか、どんなアレンジをしようか、どんな風にしたらより似合うものになるのか、考えを巡らせることは、なんとも言えない幸福感を与えてくれる。
 それに、自分自身の技術が少しずつ上達していくのがわかるし、自分にとって必要なものと不要なものを取捨選択できる。この形は体に合わない、この色は似合わない、このテクスチャーは好きじゃない、そうやって自分の思い通りにできる。失敗しても自分の責任だし、なにより失敗から多くのことを学べる。失敗したものは別の何かにつくりかえたらいいから無駄にならない。こんなに自由なことはない。その解放感がなんとも清々しい。

 服を本格的につくりはじめたのは3年ほど前のことだ。滋賀から東京へ戻ってくる少し前に、家庭用のシンプルなミシンを購入してから、服の制服化をはじめたのだった。理由は明確だ。「着るものがない」ってもう言いたくなかったから。
 服でいっぱいのクローゼットをみながら「着るものがない」ってげんなりした経験は誰にでもあると思う。こんなにたくさんの服があるのに、何も似合わないし、なにも着たくないし、着ても「これじゃない」ってなる。新しい服を買っても、その気持ちは解決しなかったし、しっくりこない感じはいつもどこかにあった。自分に似合う服を探すのは、大航海のようなものだ。とくに、プラスサイズの人間にとっては、似合う服を探すというだけじゃなくて、前提として体が入る服を探す長旅でもある。これがなかなか過酷な旅なのだ…何十もの苦難を乗り越えないといけない、受難の旅といってもいい。

 雑誌やinstagram、街中ですれ違ったお洒落な人とか、どこかで見かけた素敵なスタイルに憧れて、試着室でがっかりしたり、悲しくなることは、ごくごくありふれた経験だ。それだけでも、ハートブレイキングだし、3Lの涙に値することもある。だけど、前提として体が服に入らないのは、スタートラインにも立たせてもらえない、圧倒的な敗北感を味わうことになる。
 それに、実のところ、試着室に入るまでにいくつもの数えきれない苦難を乗り越えないといけない。まずは、ショップに入る時点での苦難。この店に、自分の体に合う服があるのか、この店に入ることは場違いじゃないか、人々に「なにあの太ってる人、デブが来るところじゃないけど」って思われないかなど、それらのインセキュリティとの格闘に勝たないと店に入ることすらできない。
 たとえ、ファーストラウンドで勝って入店できたとしても、次は別の自意識との格闘が始まる。店の中にいるだけで、例えようがない居心地の悪さが押し寄せてくる。サイズタグを見ているところを人に見られることの恥ずかしさ、店員さんに声をかけられたらどうしようという恥ずかしさ、頭のなかで幾千もの恥ずかしい経験がフラッシュバックする。服を手に取るのも見るのも怖くなってくる。この時点で心が折れて、風の如く店を去ることもある。ありとあらゆる自意識にも打ち勝って、気に入る(かつ入りそう−これがもっとも重要−な)服が見つかったとしても、次は試着室での格闘が待っている。
 さて、ここで想像してほしい。
 いくつもの苦難に打ち勝って、試着室に入ったのに、服が入らないという、圧倒的なNOに打ちのめされる気持ちを。鏡に映る自分の姿の悲しさ。情けなさ。醜さ。そして、恥の意識と自意識との格闘に負けて、最後まで人目を気にしながら急いで試着室から逃げ出して、店からも駆け足で出て行く気持ちを。幾たびも試着室での格闘に負けて、涙の塩分で体が溶けてしまった人は、いったいこの世にどれくらいいるんだろう。
 
 服に体が入らないということ自体が恥ずかしいことなのだから、こんな自分の経験は人に知られたくないって思ってた。こんな気持ちでいること自体が恥ずかしいことだから、人に話してはいけないとずっとずっと思っていた。内心、この体型をみれば、そんなこと言うまでもないでしょ、これ以上打ちのめさんでくれよ、とも思ってた。
 そんな状態で、ショッピングが楽しいわけがないですよね。わたしが友人たちと買い物に行かないのはそういうことなんです。こんな姿を、人に見られたくないし、見せたくないし、知られたくない、同情されたくない、軽蔑されたくない。

 その上、太っているという肉体的な事実が、人格の問題にとして議論されてしまうことだってある。太っているのは、努力不足、自業自得、自制心がない、自己中心的。太っている人のことを語るとき、これらの決めつけや憶測から逃げることはできない。だけど、すべての太っている人が、食べ過ぎで太っているわけではない。自制心がないわけでも、努力不足や自業自得で太っているわけでもない。ましてや人格の問題であるとは限らない。自分の体を守るための方法として、太らざるを得なかったひともいるし、物心ついたときから太っていた人だっている。その人の体には、その人の歴史があり、その人の選択には、その人なりの理由がある。わたしが服をつくるようになったことも、実のところ、いくつもの自己否定と、恥と自意識との格闘、試着室での悲劇を無数に繰り返したうえでの選択なのだ。

 このことを、今、こうやって書き出しているのは、Roxane Gayの “ Hunger “を読んだからだ。これまでは、なんで自分が服をつくるようになったのか、深いレベルまで考えていなかった。というより、目を逸らしてあえて考えないようにし続けていた。自分の行動や思考が、ここまで根深く肉体によって影響されていることを理解していなかったのだと思う。わたしの精神的な葛藤の多くは、「日本という国で育った外国籍の人間」というアイデンティティによるものだと思っていたけれど、本当はもっともっと根源的な「肉体」へのインセキュリティが大いに関与しているのだと、今になってわかってきたのだ。

 思い返してみれば、自分の体の問題に気がついたのは、物心がついた5歳くらいのころだ。気づいたときには、すでにまわりの子どもたちよりもひと回りもふた回りも体が大きかった。足のサイズだって、当時の保育園の先生よりも大きく、子どものようの靴はサイズがなかった。くりくりとした髪の毛や、耳に開いたピアスも手伝って、どこにいても非常に目立つ子どもだった。
 でも、身長や、髪の毛以上にわたしが心底気にしていたのは、自分の下腹部のでっぱりだった。子どもの頃から、私の下腹部はまるで内臓が骨盤から溢れ出しているかのように、ぽっこりと前に突き出していた。まわりの子どもたちは、みんなストンとしているのに、わたしだけぽっこりしている下腹部。子どもながらに、このでっぱった下腹部が、可愛いものではないということには気づいていたし、それがどのように人の目に映っているのかも気がかりで仕方がなかった。だから、どうやってこのでっぱりを隠すかがわたしに課せられた日々の試練となった。
 わたしが特に嫌いだったのは、ブルマの体操着。ブルマは、自分の体の一番気になる部分を、もっとも強調させる衣服だった。その上、体操着をブルマにインして着ないといけないでしょ?思い出すだけでも苦しくなるのは、体操着をブルマにインせずに着ていたことで、先生たちに何度も注意されたこと。わたしは素直な性格で、決まり事はしっかりと守るタイプだ。だけど、体操着をブルマにインすることは、そんな自分の性格を突き破るくらいの恥ずかしさをわたしに抱かせるものだった。
 この体験を思い出すとき、まるでたった今目の前で怒ったこのようにヴィヴィッドな、恥の感覚が溢れ出してくる。体操着の裾を下にひっぱるときの生地が伸びる感覚や、ブルマから伸びる丸々した太ももが擦れる痛さも、ブルマに体操着をインすることを強要されたときの、ブルマの腰ゴムの締め付け感も全部覚えている。そんな体をしている自分自身への嫌悪感だって。わたしにとってブルマは長い肉体との格闘との始まりだった。

 じゃあ痩せたらいいんじゃないの?って、思いますよね。わかってます、そろそろそう言われるころだと思ってました。
 プラスサイズであることのコンプレックスは、痩せることで解消されるはずだって。たしかにその通りだし、わたし自身もこれまで何度もダイエットをしてきた。だけど、なかなか痩せることはできなかった。わたしはちゃんと食べる人ではあるものの、大食いというわけではない。テレビのダイエット番組に出てくるような人の食生活とはかけ離れているし、普通の人と同じくらいの分量を摂取してても、わたしの体は否応なくどんどん太る。太るのも才能と言われていたりするけれど、わたしは太らない努力をしないと、デブの階段をどこまでも登っていける。そういう自分の体質のことはよくわかっているから、常に注意をはらっている。

 加えて、今現在、体重のコントロールが難しい状態に陥っている。脳から分泌される複数のホルモンが不足していることもあり、いろんな症状が体にでる。1日の間に体重が大きく変動する。過去には2週間で7キロも体重が増えたことさえある。現在はホルモンの補充を薬剤に頼っているけれど、体重は自分の意思とは反対にどんどん増え続けている。だけど、このような経緯があることを話さない限り、わたしの体への憶測からは逃れられないし、たとえそれを口にしたところで状況は大きく変わることはない。この肉体に対する心身の苦しみは、いわば画一化された美のスタンダードから外れてしまっていること、「普通じゃない」ことに対する疎外感、自己嫌悪、偏見、その他ここでは書ききれないほど多くの問題を内包している。
 Roxaneは、” Hunger “で、ありとあらゆる角度から、太っている人々が直面する様々な問題を赤裸々に書き出した。描かれているのは彼女の物語でありながら、わたしや、その他プラスサイズの人々が直面している体の問題でもある。体が大きくなった理由や、その付き合い方は人それぞれ違っても、この苦難を生んでいる現状や、悪化させている要因は同じだ。

 Roxaneにとって、食べることはコントロールできないありとらゆる体とメンタルの問題を、彼女にできる方法で解決するためのcoping mechanismだった。とても皮肉だけれど、それ自体が彼女の体をどんどん大きくして、より状況をコントロールできないようにしていった。でも彼女は、書くという行為によって自分自身の人生のコントロールを取り戻していった。体の大きさと、それによって生じる様々な葛藤や、精神的、肉体的な苦難は、今後も彼女の前に立ちはだかり続けると思うけれど、少なくとも彼女は書くことによって手綱をぎゅっと握りしめている。

 服をつくることは、わたしにとって人生のコントロールを取り戻すための方法だ。ただつくることの喜びがあるだけじゃない。そこには、自分自身をどのようにプレゼンテーションするのかをコントロールする力がある。色や、質感、形を選択し、どのように人に見られるかを、ある程度方向付けられる。なにより、わたし自身が自分自身の姿に納得して人前に出られる。自信も持つことができる。たとえ、それが「スタンダード」から外れていても、わたしなりの方法で、わたしに対するイメージをある程度コントロールすることができる。
 だからといって、ブルマを履いた惨めな自分や、試着室で涙の海に溺れる自分の気持ちをこの先忘れることは決してない。なにせ、この自己否定の感覚、体へのインセキュリティ、他者からの視線や憶測、それらすべてが現在のわたしを形作ってきたものだからだ。だからこそ、わたしは今後も自分で服をつくりつづけると思う。たとえ、今より体が小さくなることがあっても、ミシンに向かうと思う。それくらい、服をつくることは、今のわたしが人生をコントロールする上で大事な要素になっているのだ。

 わたしがこれまで、大脳辺縁系の奥深くから知っていたのに口にできなかったこと、あまりの恥ずかしさに、存在していたことすら認められないでいた様々な感情の存在を素直に受け止められたのは、なによりRoxaneの数えきれない格闘をしかと見届けることができたからだ。わたし自身、今後も自分の体との長旅の中で、苦難に直面するこがあることはわかっている。だけどね、わたしなりのcoping mechanismを見つけられたら、道に迷うことはないと思う。服をつくっているときは嫌なことも、悩んでいることも、疲れさえも吹き飛ばせる。わたしにとって、服づくりは力を与えてくれる太い太い手綱なのだ。この手綱は、自分のためにも絶対に手放さない。