Breaking the Curse

長期滞在者

IMG_1097

 毎年12月は、その年のまとめのような記事を書いてきた。今年、わたしの人生は、「自己肯定感」と「病気」を軸にして、目が回るほど様々なことが起きた。「自己肯定感」については、山ほど書きたいことがあって、到底一つの記事には書ききれない。だから、今日はつい最近考えたことについて書きたいと思う。

 つい先日まで、アパートメントのリニューアルのためのクラウドファンディングが行われていた。多くの方のご支援のおかけで、目標の180万だけではなく、セカンドゴールの250万円も無事に達成することができた。わたしも微力ながら、手編みのブランケットを2枚寄付し、この祭りに参加することができた。クラウドファンディングの生放送にも参加させてもらうこともできた。でも、一番予想していなかったのは、早々とブランケットの貰い手さんが決まったことだった。

 正直にいうと、手編みのブランケットは誰にも選んでもらえないかもしれないと思っていた。前述の通り、「自己肯定感」の欠如による自信のなさが影響して、わたしは自分自身が行う全ての行為に対し、自分がやっていることだからうまくいかないと思い込んで、否定から入ってしまうところがある。自分が作ったものだから、大したものじゃない、誰も欲しがらない、こんな技術ちっともすごくない、ちっとも魅力的じゃない、無意識的に自分がつくったものに、そんな呪いの言葉をかけてしまう。

 その一方で、自分が作ったものだから、ブランケット自体はとても好きで、愛おしく思ってもいる。ブランケットを使う人の良き相棒となって、寒いときも悲しいときも健やかなるときも、どうかその人を守ってあげてねと祈りながら編んだ。そう、実のところは、ものすごく楽しんでブランケットを編んでいるのだ。
 ブランケットは特に、余り糸や手つむぎ糸などを使うから、何度も何度も糸を変えることになる。この色の次は、この色を編んでいこうとか、この糸の手触りがいいから、肌触りが際立つように、この糸の間に編んだ方いいな、とかって心の中でブランケットの表情を考えながら編み進めていく。細い糸も太い糸も使うし、糸の素材も、ウールだけじゃなくて、本当にいろいろな種類の糸を使う。糸の持ち味や個性は主張し合いつつ、糸同士のバランスは考えているから、不思議と統一感が出て、自分がつくったものの気配がでてくる。別のブランケットでも、どこか雰囲気が似ている兄弟に育っていく。

 編むときは様々なことを考える。自分の体のこと、亡くなった祖母のこと、パートナーのこと、仕事のこと、日々の感謝や、今後の目標や、夢のようなものまで、日々頭のなかでうごめいているありとあらゆることを何度も何度も思い返しては、糸と一緒に編み込んでいく。一目一目、一段一段、あなたかわいいね、素敵だねって思いながら編み足していく。きっと素敵な子に育つねって、ずっと思っている。出来上がっていくブランケットを見つめる眼差しは、親の目線なのだと思う。完成したときは、ここまでよく育ってくれたと誇らしい気持ちになる……

 それなのにね、そのかわいい子どもを否定してしまう。人の前に出ていこうとすると、わたしがつくったものだから、この子に価値なんてないと決めつけて。かわいいと思っているのはわたしだけだと、その子の過去と現在、未来を呪ってしまうのだ。ブランケットにはなんの罪もない。悪いのはわたしの考え方で、わたしがどう自分自身を捉えてるかに問題があるのだ。そんな考え方だから、そりゃ、何事もうまくいくわけはない。自己肯定感が欠如するというのは、とても厄介なものだ。自分自身を肯定できないのだから、自分が生み出すありとあらゆるものを肯定できるはずがない。

 だから、ブランケットの買い手さんがついたとき、すごく驚いてしまったのだ。ブランケットを良いと思ってくれた人がいたことに驚いて、こんなに早くに売り切れてしまったことにさらに驚いた。嬉しかった。嬉しかったのに、とても不思議に思った。もちろん、なんで?っていう疑問自体が、おかしいということも自分でよくよくわかっている。だって、そのブランケットの良さは自分が一番わかっているのだから。実際、良くなるように編んだのはわたしだし、素敵なものになるよう幸せな気持ちで祈りながら編んだのだから。

 作り手の呪いから解放してあげないといけない、と感じたのは買い手さんのひとりのコメントを目にしたときだった。その方は、ブランケットを「幸せそうな色」と形容してくださっていて、その言葉についてしばらく考えていたとき、体の中でなにかスイッチが入ったように気づいたことがあった。
 わたしがつくるもの、書くものからも「幸せ」を表現できるのか、っていう気づきだ。わたしは、確かに大変な思いをしてきたし、たくさんのトラウマや生きづらさを抱えて生きている。それによって自己肯定感もガタガタだし、ネガティブだし、世の中を斜に構えてみている節もある。だから、わたしの表現は、幸せとは程遠いものだと思い込んでいた。だけど、たとえガタガタなわたしがつくったものからでも、受け取る方の力や解釈が加わることで、新しい意味が生まれていくんだなって。
 事実、わたしは編むことや書くことによって、多くの喜びを見出してきたし、下手なりに表現し続けることで、救われてきた。口には出せないようなことも、編み物や書き物を通して、心を整えたり、整理したりして前進することができた。だからこそ、今も生き続けることができるのだと思う。
 ありとあらゆる経験や感情を、自分がつくったものが体現するというのは、それこそ当たり前のことではあるのだけれど、これほど色鮮やかにそのことを素直に受け入れることができたことは意外なことだった。それはきっと、受け取ってくれる人の力が加わることで、わたしの力の範疇を遥かに超えたことができると気づいたからでもある。

 たとえわたしがどんなにガタガタで崩れ落ちそうになっていたとしても、つくるもの、書くものには罪はない。そして、世に放った瞬間からそれらはわたしだけのものだけではなくなる。だからこそ、わたしは彼らを解放してあげないといけない。わたしの自己肯定感が欠如しているからって、わたしが表現するものの尊厳を傷つけてはいけないのだ。なにより、呪いをかけ続けてはいけない。そう思ったときに、全身を覆っていた煤を払ったかのように、視界がすっと透明になるのを感じた。

 自己肯定感の欠如は、いわばわたしがわたし自身にかけ続けてきた呪いなのだ。その呪縛を解いていくためには、まずはわたしが自分自身にかけた呪いをといていくしかない。ブランケットの買い手さんの言葉は、そんなわたし自身にかけられた呪いの言葉を、融かして、解いていくきっかけになったような気がしている。今では、編んでいるときに感じていた、丁寧な気持ちをじっくり噛み締めながらブランケットを見つめることができる。自分が感じているポジティブな思いを、素直に受け止めて、かわいいねあなたたちっていうことができる。だから、もう否定したくない。そのためにも、来年もわたしは自己肯定感をどうやってより高めていくかに挑戦し続けたい。そうすることで、より道は拓けていくと思うから。