思想は揺れ続ける

長期滞在者

良いエッセイは、読むと読者の中に著者の像がしっかりと立ち上がってくる。
寺尾紗穂さんの『彗星の孤独』も、そんな一冊だった。

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寺尾紗穂『彗星の孤独』(スタンド・ブックス)

『彗星の孤独』は音楽家であり、文筆家でもある寺尾さんが身の回りのことを綴ったエッセイ集だ。書き下ろしもたくさんあるけれど、これまでに雑誌や新聞で発表されたものや、自身のオフィシャルブログから収録されたものもある。書かれた時期も媒体もばらばらだけど、とりとめのない日常の空気や、人間の複雑さを残しながら、その人の芯が見えてくるように編まれている。

全部で5つの章と「長いあとがき」の6つの部分で構成されていて、まずは寺尾さんがこれまでにリリースしたオリジナルアルバムと同タイトルの散文がそれぞれ1作ずつ。それから、これまでに発表したエッセイに書き下ろしを加えた家族や日常を綴った2章、日常を綴りながら社会への言及も多い3章、高知新聞での連載「時には旅に」を収録した4章、父・寺尾次郎の死に際して書かれた5章、あとがき、と続く。

最初にそれぞれのアルバムについて話しているのがいいな、と思った。
といっても、アルバムそのものの思い入れや製作秘話などはあまり語られていなくて、製作と並行して身の回りで起きていたことが描かれている。
それは製作とは必ずしも関係しないので、音楽誌のインタビューではこぼれ落ちてしまうことも多い。
しかし個人的な体験は、きっと作品に滲みでる。これらの文章を読むと、思想だけではなく、音楽家が製作時に見た景色を共有できるように思える。それは音楽を聴く時に、友人が歌っているのを聴くような親密さをもたらしてくれる。体温や、手触りのようなものだ。

親密さという意味でいえば、この本では同じエピソードが別の話の中で再登場することがある。たとえば、ごろつきであった画家・カラヴァッジョの表現やその半生。アカデミックと市井の人の言葉が時に乖離してしまうという話。長女を産んだ助産院が自然分娩にこだわるところで、逆子をなおすために逆立ちさせられたり3人がかりでお腹を触り、手でお腹を触られまくった話。この助産院は相当強烈だったようで、食事指導の記録に「おにぎり(鮭)」と書いたら「どうせフレークでしょう」と言われ心の中でブチ切れた話も2回くらい書かれている。

何度も書きたくなるのは、それだけ強く印象に残ったからだろう。実際、一人の人と長く付き合えば「前にもこの話聞いたな」ということはよくあるし、自分も同じ話を友人に何度もしている。
そういうことが起きるのは、数年単位で書いてきたものを一冊にするからだ。最近多い、ウェブ連載を本にするような短期集中型だと起こりにくい。こうした時間の流れが作り出す繰り返しは、退屈ではなく、よりその人のことを知る繰り返しだと思う。

寺尾さんの興味の対象も、「繰り返し」によって描き出される。強い思いを切々と述べるのではなく、日常に溶けこんでいるそれらの話を重ねていき、たしかな視点を作り出す。
その対象は、忘れられた民謡や信仰の対象、原発労働者やホームレス、死者、神々、霊など。どれも現代社会ではいないことにされている存在だ。

彼女の音楽でも、それらに対して眼差しは向けられている。これまで寺尾さんの音楽を聴いてきた人は、そこから受け取った考えや印象を、文章ではより明確に受け取ることができるだろう。

『彗星の孤独』を読むと、この人にとっては音楽も文章も手段なのだなと感じる。芸術家の場合、ストイックな人ほど表現そのものが目的化してしまうことがあるけれど、それがない。芸術を誰にとっても開かれたものだと考え、それを自分も実践しているだけ、という感じ。

それはたぶん、構えず力を抜いていればできることなのだ。ただ、力を抜くのは本人だけではなく、周囲もそうである必要がある。芸術を突き詰めないと意味がないと切り捨てたり、神秘として崇拝したりせず、素朴で身近なものにすること。その大切さは、寺尾さん自身もこの本の中で書き、また曲の一要素にもなっている。

“文学や芸術はもっともっと一個人に開かれていいものだと思う。誰がいつ始めてもいい。その巧拙やレベル如何に最後までこだわる人もいるだろうが、一番大切なのはひとりの人間にとっての切実な表現と喜びがそこにあるかどうか。それから、それを認めて受け入れてくれる人が身近にいるかどうか”(「楕円の夢」より)

“芸術を追い求めて、それで食べて行けるような才能は持ち合わせない場合、自殺は珍しいことではない”(「たよりないもののために」(随筆)より)

“疲れ切った仲間が
 舞台をおりてゆくよ
 舞台なんかないって誰も叫ばない

 演じることがすべてなんて
 そんな真実いらない
 正直だった者たちの
 ダンスは続いてる”
    (「たよりないもののために」(音楽)より)

少し話が逸れたけれど、評価されない芸術家というのも、「いないことにされているもの」のひとつかもしれない。忘れられた民謡や信仰の対象、原発労働者やホームレス、死者、神々、霊。日常のあらゆる場面で、寺尾さんは「いないことにされているもの」を追う。見えないもののために想像力を働かせ、見えているものを疑う。対立から対話へ、同化から共存へ。個人のひそやかな声から、糸口を見出そうとする。

“無知は罪ではない、凶器なのだ”(「河童は死んでいない」より)

“意見を違わせ対立し合う状況から、意見の違いをひとまず措き、何かをまず共有していくことの重要さに気付かされもする”(「高知 心の調律師」より)

“「だから、いろんな意見を知って自分の主張ができなくなってしまう、何が正しいかわからなくなってしまう、そういう状態は必ずしも悪いことではなくて、白でも黒でもない新しい答えを出すために必要な通過点になるのではないでしょうか」”(「沖縄 主張と主張の間をぬう」より)

排外的になることを避け、そうなってしまっている社会に危機感と怒りをあらわしながら、思想は揺れ続ける。“現実は常に複雑であり、いつも変化しているから”だ。
寺尾さんはそれを、花田清輝の「楕円幻想-ヴィヨン-」を引き合いに出しながら、楕円というかたちに託す。

楕円は円と違って焦点が二つあり、その位置によって円に近づいたり、線に近づいたり、変化する。円のようにわかりやすく、不変のものに惹かれるのを認めながら、飛びつかず、立ち止まる。

“何かに固執したとたん、それは古び始めるのだ。なぜなら現実は常に複雑であり、いつも変化しているから。複雑で微細な現実のうち、ひとりの人間が見ることのできる部分なんて、あまりにもわずかなのだ”(「楕円の夢」より)

楕円の夢を見ながら思索を続けるひとりの女性の知性が、凛とした文章に満ちている。