思い出すことなど

長期滞在者


最近、思い出すということにハッとさせられることが多い。多分、本当は胸の奥にしまいこんでいたほうが楽なことばかりなんだけれど、思い出してしまったら、なんでこんな大事なことを忘れていたんだろうって、逆に不思議に思うことばかり。

人間は辛いことを忘れると聞いたことがある。心は自然とそういうメカニズムになっていて、精神のバランスをとるために、本当に辛いことは忘れるんだって。もしかしたら、そういう感じで忘れてしまっていたのかもしれない。真意はどうであれ、やっぱり思い出したくはなかったとも思う。

こんなことをインターネット上で書くのは気がひけるんだけれど、過去の恋人との関係で、とても後悔していることがある。後出しジャンケンで卑怯だけれど、当時のわたしはその人と肉体的な関係を持つことを、本当は望んではいなかった。わたしにはまだそこまでの心の準備ができていなかったし、心がそれを求めていなかった。それなのに、当時はそうしないといけないものだと思い込んでいて、自分の素直な気持ちを押し殺して、その人とは結局”そういうこと”になった。そうしないと、その人に失礼やと思っていたから。でも、本当にそうだったんだろうか。

そのことが自分にとって辛いことだったと気づいたのは、それから何年もたってからだった。なんでそんなことしてしまったんだろうという後悔と、相手に対して誠実ではなかったという後悔と、自分自身に嘘をついてしまったという後悔と、今更過去のことを延々と悔やんでしまう自分のずるさを思って、頭を抱えることが何度もあった。大声を出して振り払ってしまいたい衝動に駆られるたびに、自分の中でなにかが死んでいくような気がしていた。結局、後悔と自責の念すら、蓋をしてしまいこんでいた。つい先日まで。

連れ合いとたわいのない話をしつつ交差点の信号待ちで、ふとそのことを思い出したとき、十数年の時間がまるで嘘のように、今しがた起きたことのような強い痛みとなって襲ってきた。痛い痛い痛いって、心が叫び声をあげるようだった。わたしはまだ、当時のころからちっとも回復できていないんだって、そこでまた驚いたし、ショックを受けた。それだけ自分で自分自身を深く傷つけてしまっていたんだと思う。ただ、辛かったと思えるようになったことは、ある意味では乗り越えつつあるということなんだろうか。

温又柔さんの『台湾生まれ 日本語育ち』を読んでいたときにも、同じようなことが起きた。台湾に住む親戚達から言われた言葉に温さんが傷つく場面があるんだけれど、わたしも子どものころに同じような経験をしたことがあった。詳しくは書かないけれど、そのときに言われたことがとても嫌で、当時は自分が感じていたよくわからないもやもやや、違和感がなんなのかよくわからないでいた。消化できないまま、心の奥底に沈んでいたらしい。今なら、自分がその言葉に傷ついていたことや、悲しんでいたことがよくわかる。あらゆる感情を説明する言葉を今は知っていて、理解できるようになったからこそ、自分が傷ついていたことに気がついた。満員電車のなかでぽろぽろ泣いた。ガラス窓に映る自分の顔をみて、思わず本で隠した。こんなに歳をとるまで気づかなかったなんて、忘れてたなんてって。大人たちにとっては、きっとなんてことのない言葉だったんだと思う。だけど、わたしにとっては、今でも痛さが鮮明に残っていたりする。

こうやって、なにかを思い出すたびに、わたしは自分がなにに傷ついて、なにに苦しんでいたのかが少しずつわかるようになってきた。思い出したくないことが大半だけれど、思い出すことで自分がどういう人なのか今までよりもわかるような気がする。忘れることと思い出すこと、この二つは表裏一体で、どちらも共に尊いと今では思う。

多分、この先も思い出したことと精神的な折り合いをつけるのは難しいと思うし、受け入れるのにはしばらく時間がかかるとも思う。でも、時が過ぎたからこそ、なんでそうなってしまったのかを客観的に分析できるし、辛いことは辛いと素直に受け入れることができたりもする。だから、歳をとってよかったも思うし、結局、思い出した方がいろんなことを清算できてよかったのかもしれない。そういう風にとらえた方が、たとえほんのちょびっとだとしても、自分にとってはいいんじゃないかって思ったりする。