話すのは苦手だけど

長期滞在者

ライターという仕事をしているのに、人と話すのが苦手だ。正確に言うと、できないというより、強烈な苦手意識がある。

インタビューなどであらかじめ決められたテーマがあるときはまだいい。でも、お互いに「これからこの話をしますよ」という前提が共有できていないと、途端によそよそしくなってしまう。正直、視線を合わせることもできなくて、目が泳ぎまくっていることさえある。
雑談が苦手なのかもしれない。そうしたコミュニケーションが、話のしやすさに繋がるのはわかっている。雑談の中にこそ、聞き出したいことの原石になるような発言がある場合が多いことも。

イベントの取材などで、来場者に声をかけて感想を聞くことがある。これも昔はかなり緊張していた。
いきなり知らない人に話しかけられるわけで、向こうも驚く。その驚きが疑念へと変わるより早く、何の取材かを簡潔に説明して、手短に自己紹介をして、笑顔は絶やさないで……そんなことを考えているうちに、どんどん人が通り過ぎていく。さっさと声をかければいいのに、焦りと「うまくできない」という気持ちばかりが募っていく。
今はずいぶん慣れて、最初の頃に比べればずいぶんできるようになった。「仕事モード」を身につけたからだ。
でも、それはそういうスイッチを入れているからで、フラットではない。生活の中で、書店や服屋の店員さん、電車の中で話かけてくれたおばあさんたちとラフな会話を楽しむことは、まったくできない。どもったり、話が冗長になったりすることが多くて、好奇心を向けられて嫌じゃないかとか、忙しいのではないかとか、言い訳のように考えてしまう。

できたらいいな、と思う。まったく別人のようにはならなくていいから(時々そう思う日もあるけど)、「モード」を全部解除して、色んな人と話をしてみたい。誰かのことを知るのはいつも面白いから。短いものから長いものまで、取材はどんなものでも回答を予想しながら進めていくけれど、良い質問ができれば、いつも想像を超えた答えが返ってくる。自分一人ではどれだけ考えても思いつかなかったことが、たった数回の会話で明らかになる。あるいは知っている話でも、具体的なエピソードや感情を込めた語り口で、立体的に立ち上がってくる。
このときの喜びがなかったら、こんなに悩みながら続けていないだろう。日常でも、それは同じことだ。

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誰かと話すこと、コミュニケーションすることについて、ここ数ヶ月は特によく考えていた。そんな折に、一冊の本を見つけた。

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暮らしの文藝『話しベタですが…』(河出書房新社)

『話しベタですが……』。ズバリなタイトルである。「話す」ことにまつわる32篇のエッセイ・アンソロジーで、著者には森鴎外、太宰治、川上弘美、最果タヒ、村上春樹など古今東西の作家がずらり。迷うことなく手に取った。

全部で3章構成で、第1章は「はじめまして、のハードル」。最初に収録されている穂村弘「他人に声をかける」と、町田康「差別される人間」の2篇で、いきなりぐっと心を掴まれる。
本を探してもらうため、書店員さんに声をかけるのもうまくできない穂村さんが、英語ができるわけではないのに海外で気軽に人に話しかけたりする妻とのエピソードを通じて、未知の他人への恐怖、自在に話しかけることへの憧れを綴る「他人に声をかける」。
お店や会食で自分だけ無視される経験を繰り返し、お店ののれんの前で被害妄想を繰り広げてしまう「差別される人間」。
会話そのものの下手さでなく、その前段階の「苦手意識」が引き起こす内容だ。心当たりがありすぎて、思わず笑ってしまう。

第2章は「会話はキャッチボール……?」。1章の話しかけるというステップから、今度は会話そのものがテーマ。日々商店街でおばちゃんたちと会話をする母をみて、下町コミュニケーションのすごさを痛感する星野博美「井戸端会議」に深く頷く。著者も書いている通り、雑談って軽んじられているけれどとても高度なコミュニケーションだ。相手の感情をしっかりと読む細やかさと、さまざまな会話に対応する能力(それは知識や教養というより、共感力や想像力)が求められる。連想と逸脱を繰り返す会話は散らばってみえるが、確実に距離を縮めている。

なぜ雑談が軽んじられるかというと、それが目的やゴールを持たないからだろう。目的が生まれたら、それは雑談ではなくなる。永遠に続くプロセスは、無駄で、冗長に感じられる。
でも、ゴールを持たないことは、調整を繰り返すことでもある。なんてことのない雑談の中で、僕たちは関係を微調整しているのかもしれない。そして雑談を楽しめることは、その微調整を辛抱強さではなく好奇心でできるということ。改めて、おばちゃんたちの井戸端会議に学ぶことは多い。

「永遠のプロセス」という点では、髙橋秀実「なぜ「全部愛している」ではダメなのだろうか?」もよかった。愛の理不尽な美しさが見事に切り取られていて感動してしまったので、短い文章だけど詳しく紹介する。

毎日妻に「わたしのこと愛してる?」と聞かれるが、すっと即答できない著者。それを言えるようになると、次は「どこを愛してる?」と聞かれるようになる。「全部愛してる」と言ったら「手を抜くな」と怒られた。彼女は結論など望んでいないのだ。
質問はどんどん仔細な答えを求めてエスカレートし、結果的に著者は四六時中その質問の答えを探し続けるようになった。ある日、著者は勢いで「ところで、僕のこと愛してる?」とたずねると、彼女はきっぱりと「愛してない」と答えたという。

“どういうことかというと、愛してなくても愛してるか? と問うているのである。愛されているから愛するのでは等価交換にすぎず、そこに飛躍がない。そう、愛とは飛躍なのだ”

愛することも本当は目的やゴールのない、永遠のプロセスの中に存在する。ことの顛末は書いてしまったけれど、ぜひ読んでみてほしい。

ちなみに、この第2章では著者が「会話とは」「言葉とは」という持論を展開しているものもいくつかある。
どれもまったくの正論で、ゆえに「そうできたら苦労しないんだけど……」と思ったりもする。できないことを甘やかされたくて読むと、少し肩身が狭く感じるかもしれない。まあでも、そうした言葉に鼓舞されることだってあるし、全然合わないな〜と思っても数ページで完結するのがアンソロジーの良さだ。

第3章は「喋るばかりが能じゃない」。ここでは逆に、「べき論」から脇道に逸れ、流暢に話す以外の方法で得た個人的な体験が綴られている。

ジャズバーを経営していたころを振り返り、“愛想良くなろうと「努力した」感触”の記憶が、今の自分を支えてくれている。そんな風に、無口な人に向かってエールを送る村上春樹「無口なほうですか?」。
台湾で生まれ、幼少の頃に日本に来たため“きちんとした”中国語を話せないことにコンプレックスを抱いていた著者が、それを自分のアイデンティティとして受け入れる温又柔「失敗(スーパイ)もわるくない」。
それを自分自身として認めた人の物語は、肩の力が抜けたおだやかさを湛えている。自分以外になろうとしている間は、決して見つからない窓がある。だけど、それを探してもがいた日々も無駄にはならないのだ。

ヒトの言葉以外の世界が綴られているものもある。絵や音楽に、言葉にならない世界をみる武者小路実篤「沈黙の世界」。
とある母親からの「5歳になる息子の理解力がなく、が呑み込みが悪い」というお悩み相談に、自分自身も理解力がないということを明るく笑い飛ばしながら、ショウジョウバエの記憶実験を持ち出して「呑み込みの悪さ」の大切さを教える竹内久美子「アタマはスローな方がいい!?」。
理学博士の小林朋道は、大学で飼っているヤギのヤギコを親しい知人のように感じた話、ニホンザルの餌場の調査中、サルたちの鳴き声の応答に混ぜてもらった話などをもとに「動物を“仲間”と感じる瞬間——擬人化という認知様式」という文を書いている。
自分が戦う場所で起きたことでなくても、通じ合えた記憶は体にきちんと温もりを残す。世界が広大であることに救われるのはこんなときだ。

「話しベタ」にも、いろんな原因がある。初対面の人に話しかけられない、何を言えばいいか思いつかない、話したいことはあるのにまとまらない、みんなが退屈そうな顔をするので、自分の話はつまらないと思い込んでいる……などなど。
これは、実感をともなうかどうかによって大きく印象が違うと思う。わからない人には、なんかトロい悩みだなと思われてしまいそうなのだけど、毎日続くとけっこう堪えるのだ。口を開くたびに不正解を突きつけられているみたいだし、意思疎通がうまくできないと、自分がエイリアンになったような孤独を感じてしまうから。

そんなとき、共感できたり笑えたりする文章は、きっと心に寄り添ってくれる。落ち込むこともあるけれど、笑い飛ばして生活を続けよう。