祖父の最期のとき

長期滞在者

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 6月は見送ることの多い月だった。感情があっちにこっちに飛ばされて、流されて、正直すこし疲れ気味ではある。

 長いこと闘病していた祖父が6月11日に亡くなった。アパートメントで連載している往復書簡に、祖父について書いた直後のことだ。実のところ、祖父が亡くなる数日前からちょくちょく両親と連絡をとってはいて、そろそろ本当に容態が良くないとは聞いていたし、心の準備はしておきなさいとは忠告されていた。覚悟は多分できていたけれど、こんなにはやく、というのがわたしの正直な気持ちだった。

 祖父は、数年前から大腸癌を患っていた。高齢だったこともあり手術はしない方向で、しばらくは放射線治療やら、抗がん剤治療を行っていたと聞いている。だけど、徐々に癌は祖父を蝕んでいって、肝臓にも腎臓にも転移していたそうだ。最終的には排泄することも困難だったようで、その苦しみはわたしには計り知れない。

 祖父のことを考えるとき、わたしは否が応でも弟のことを考える。弟は祖父に溺愛されて育った。贔屓するのは良くないと人は言うかもしれないけれど、こればかりは仕方がないように思う。祖父は、ずっと息子を欲しがっていたけれど、生まれた子どもは5人とも女だったし、待ちに待った孫も立て続けに女が3人生まれた。きっと諦め半分という気持ちになっていただろうところに、わたしの弟が生まれたわけだ。祖父にとっては、待ち焦がれた待望の男の子。もちろんわたしたちは全員祖父に愛されていたけれど、弟への愛情は特別なものだった。

 よく覚えているのは、サッカーボールチョコのこと。祖父は朝市で働いてたから、そこでよくわたしたちにお菓子を買ってきてくれた。サッカーボールの柄のアルミホイルのような包み紙にくるまれた、丸い形のチョコレートは、サッカー好きな祖父らしいお土産だった。ある日、わたしは祖父がサッカーボールチョコレートでいっぱいの袋をこっそりと弟に渡すのを見てしまった。わたしの手には、数個のチョコが握られていた。自分がどんな反応をとったのかは覚えていないけれど、このシーンをしっかり覚えているから、幼心にショックを受けたんじゃないかとは思う。でも、子どもながらに祖父は弟が大好きなんだと思っていたし、多分、どこかで仕方がないと理解していたとも思う。(祖父はそれでよく娘たちから咎められていた)

 そんな大事な孫息子が、娘とともにブラジルから日本に出稼ぎに連れて行かれて、祖父はさぞかし寂しかったろうと思う。残念なことに、わたしたちは祖父とはあまり一緒に過ごすことがなかった。合計すると8年くらいの間だろうか。移民の子として生まれたことの宿命かもしれないけれど、本来であればもっと祖父の話を聞いておきたかった。祖父の子どものころの話は、まるで武勇伝。わたしには冒険物語に聞こえたけれど、そのワクワク感は思春期真っ只中の若者さえ虜にするようだった。正直すぎて、たまに人を傷つけてしまう祖父だったけれど、はっきりした物言いは見ていて気持ちよかったし、わたしもよく傷つけられていたけれど、それでも祖父のことが大好きだった。

 祖父の最期については、いとこの結婚式に出るためにブラジルから訪日した父方の祖母から聞いた。父方の祖母に会うのも、3年ぶりくらいで、祖母には白髪が増え、すこし痩せていた。彼女にも時間の波が押し寄せているのはすぐにわかった。足を悪くしているらしく、以前よりも歩くスピードは格段に遅くなっていたし、着替えにも苦労していた。
 実は、いま現在わたしの弟は、この父方の祖父母の世話になっている。一緒にいちご農園をやっているのだ。サンパウロから少し離れた、ミーナスジェライス。そのすこし奥まった田舎町で暮している。時期的にはちょうど今が収穫のタイミングで、忙しい時期でもある。弟は週末に実家に帰る生活をしているのだけれど、祖父が亡くなる前の2週間ほどは、忙しさから家に戻らなかったという。両親から祖父の容態を聞いて、実家に戻ったのが祖父の亡くなる前日のこと。病院にたどり着いた弟をみて、祖父は一言、
「お前の顔が見れたから、もう満足だ」
と言ったそうだ。そして、祖父はその翌日早朝に息を引き取った。

 祖母からこの話を聞くまでは、あまり祖父が亡くなった実感が持てなかったのだけれど、これが冗談ではないことや、弟と祖父の様子がありありと想像できて、ようやく悲しみが湧き上がるのを感じた。
 弟が祖父の臨終に間に合ってよかったし、最期を看取ることができてよかった。顔を見せることができてよかった。そう思うと、どうしても耐えきれなくて、わたしは両手で顔を隠しながら泣いた。遅れてきた悲しみに押し流された。そばにいた祖母は何も言わなかった。

 移民として生活していると、大切な人の最期に立ち会えないことは大いにあり得ることだ。祖母だってそうやって何人もの大切な人々の最期を見送ることができなかった。移民として生きることは、ときには残してきた人々に薄情な印象を与えるかもしれない。自己弁解かもしれないけれど、仕方がないことだとも思う。自分がいま生きている場所は、生まれたところから2万キロも離れた、もっとも遠い場所だから。すぐに行こうとしていける場所ではないから。救われたのは、悲しみを実感したときに、祖母がわたしの近くにいてくれたこと。慰められることなく、ただそばにいてくれたこと。祖母はきっとなにもかもわかっていたんだと思う。わたしの心のなかにある申し訳なさや、諦めの気持ちや、その他もろもろの交ざり物が多い悲しみを。

 祖父が亡くなったことによって、より一層自分の祖父母世代がどのような人々で、どのような生き方をしてきたのか、知っておかないといけないと思って、これまで多くを語らなかった祖母にも、子どもの頃の話や、曽祖父母についていろいろ聞いた。会えるときに、話ができるときにしておかなくては、そんな義務感そのような気持ちだった。いまを逃したら、後悔することもきっとあるから。17日、18日は祖母だけじゃなくて、普段あまり交流のない従兄弟たちとも大いに話した。深夜の4時半まで話は続いて、6時半に起きてからまた祖母とずっと話し続けた。こんなに人と話すのは久々だった。だけど、知っておかないといけないと思った。もしかしたら、これが祖母と会えるさいごの日かもしれないから。

 祖母はもうブラジルへと帰って行った。今頃はもうミーナスの片田舎で、わたしの弟と一緒にいちごの収穫をしている。祖父の葬式は、もうすでに終わっている。ブラジルに戻ったら、真っ先に祖父の墓参りに行こう。それまで、どうか祖母が元気でいてくれるといい。まだ聞きそびれたことがたくさんあるから。どうか、どうか、元気で。