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2F/当番ノート

日隅さんごめんなさい

当番ノート 第3期

「おれ、ここにいていいのかな。涙も出ねえし」

 6月14日、ニコニコ生放送で「【追悼】 日隅一雄 〜ガンと闘いながら取材し続けた弁護士〜」という特別番組がインターネット放送された。

【追悼】 日隅一雄 〜ガンと闘いながら取材し続けた弁護士〜

 私は番組のゲストとしてスタジオに呼ばれていた。でも、ずっと居心地の悪さを感じていた。それは私が生前の日隅一雄さんと交わしていた約束を、何一つ果たせていなかったからだ。

「薄情者。怠け者。取り返しのつかないことしやがって」

 他のゲストが日隅さんとの思い出を語る間、私の頭の中ではずっとこのフレーズが繰り返されていた。

 その声の主は日隅さんではない。私自身だ。日隅さんは亡くなるまで、ついに一度も私を責めることはなかった。

「日隅さん、ごめんなさい」

 私は心のなかで何度も何度も繰り返した。

   ***

 2012年6月12日午後8時28分。弁護士でもありジャーナリストでもあった先輩、日隅一雄さんが亡くなった。享年49歳。

 昨年5月末、日隅さんは末期のがんであることがわかり、「余命半年」の宣告を受けていた。がんがわかった時、手術もできないほどがんは進行していた。

 それでも日隅さんは体調の許す限り東京電力の記者会見に出席し続け、『検証 福島原発事故・記者会見 東電・政府は何を隠したのか』(岩波書店・木野龍逸氏との共著)を上梓した。

「正直言って、宣告期間は過ぎているんですけれども、このままどこまでがんばれるか。がんばります!」

 昨年12月に都内で開かれたパーティで、日隅さんは笑顔で参加者たちに挨拶した。記者仲間が「日隅さんはもう余命マイナス6カ月ですね」と失礼な冗談を言っても決して怒ることなく「そうなんだよね。どこまで記録を伸ばせるかだよね」と笑って返してくれるような人だった。

   ***

 今年2月9日に日隅さんの出版パーティが開かれた時のことだ。私は日隅一雄さん、木野龍逸さん、上杉隆さんの鼎談本の構成を担当していたため、その場に招かれていた。

「もうすぐ、本が出ます。今、畠山さんが作ってくれています」

 パーティの冒頭挨拶で、日隅さんはプレゼンをしながらそう紹介してくれた。だが、私の手にあった本の原稿は、ほとんど進んでいなかった。それなのに私はのんきにパーティに出席していた。日隅さんはまだまだ生きる、と勝手に思っていたのだ。だから私は壇上でマイクを持ってこんな挨拶をした。

「日隅さんはすでに余命宣告期間を過ぎています。でも、日隅さんは先に目標があれば、それに向かって元気に生きていける人です。だから私が原稿を書き上げなければ、日隅さんはきっと安心して逝くことができません。いま、僕が預っている原稿は、ずっとずっと先延ばしにしたい。20年以上先に伸ばしたい。日隅さん、ずっと長生きしてください」

 私のこんな失礼な挨拶にも、日隅さんは手を叩いて大爆笑してくれる人だった。「どうなってるの?」と私に尋ねることもなかった。急かすことも、責めることもなかった。顔を合わせると、いつもニコニコしてくれた。そして私が原稿を書き上げる前に、日隅さんは亡くなった。

 私は日隅さんとの約束を守ることはできなかった。

   ***

 今年5月26日、東京電力福島第一原子力発電所の構内が初めてフリーランスの記者にも公開された。私は抽選の末に木野龍逸さんとともにフリーランス記者枠の2名のうちの一人となった。

 その取材に送り出してくれたのは、東電に対して「現場公開」を訴え続けてくれた日隅一雄さんをはじめとするフリーランスの記者たちだ。日隅さん自身は抽選に参加しなかったが、抽選会場まで来て結果を最後まで見届けた。

 5月26日。構内取材を終えた足で、私は木野龍逸さんとともに日隅さんが待つ福島県いわき市内のホテルに駆けつけて構内取材の模様を報告するインターネット番組に出た。撮影禁止という条件下でもあり、たいした成果は上げられなかったが、同じテーブルに座った日隅さんは「お疲れ様」と言ってくれた。

 そして番組の最後、日隅さんは視聴者に向けて明るくこう言った。

「余命宣告から1周年を迎えましたので、これを記念してタオルを作りました。今、この番組を視聴されている方、10名にプレゼントします(笑)」

 私は日隅さんの突然の「告知」に爆笑してしまった。

 自分で「余命宣告1周年記念タオル」を作ってプレゼントするだって? こんな面白い人、めったにいない。

「日隅さん、おかしいよ(笑)」

 私がそう言うと、日隅さんはいつものようにニコニコしていた。

   ***

 人間はいつか死ぬ。まわりの人間が死んでほしくないと思っても、いつか死んでしまう。それまでは笑っていよう、人を笑わせよう。日隅さんはそんな人だったと私は思う。

 私は日隅さんの最期にも間に合わなかった。危篤の知らせを受けてすぐに福島から車で病院に向かったが、24分、間に合わなかった。

「日隅さん、ごめんなさい。おれ、何もかも間に合わなかった」

 日隅さんが火葬される日の午前中、私は日隅さんのご遺体と対面し、最後のお別れをした。そして死に化粧がほどこされた日隅さんの顔を見ながら日隅さんに謝った。

 でも、日隅さんはもう笑ってくれなかった。私は悔しすぎて泣けなかった。

 人が亡くなるって、そういうことだ。わかっていたはずなのに、私は約束を守らなかった。本当に申し訳ないと思う。だからこれからの人生、今からでも果たせる日隅さんとの約束は、かならず果たしたいと思う。

 日隅さん、いままでご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。そして亡くなってからもご迷惑をおかけすることになってしまいました。

 本当にごめんなさい。

畠山 理仁

畠山 理仁

はたけやま・みちよし▼1973年愛知県生まれ▼早稲田大学在学中の1993年より週刊誌を中心に取材活動開始▼大学除籍▼フリーランスライター▼『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)著者▼ハイパーメディア無職 

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