ii 永久糖度
これが夢ではないことは、制服の袖から出た腕が知っている。
摂氏零度をはるかに下回る空気に晒され、細かな霜が降りてレースのが縫い付けられたようになっているプリーツスカートの裾を見て、寝ている間に汗をかいていた事を知った。
見回すと辺りは真っ暗で、街灯なども見当たらず、オーロラと月明かりを一面の雪が反射して仄かに足下が白く光っているだけだった。
私が思う通り、ここは本当に南極なんだろうか。
南十字星は見えるし、ついこの間2年生もプールが始まったばかりの季節だというのに、空気は冷凍庫の中よりも冷たい。だけどペンギンの姿は影すらも見えないし、アザラシも、真っ白で甘い大福餅のようなユキドリもいない。
もしかしたら南半球のどこか別の国なのかもしれない。だとしても、どうやってここへ来たのかも分からないし、どうやって帰るのかなんてもっと見当もつかない。「何かあった時の為に」と持たされていた携帯は鞄の中に置いてきてしまった。数分前まで保健室に居たのだから、方位磁針や地図なんてある訳もない。
だけど家に帰れるかどうかなんて、今はどうでもよかった。
私の希薄だった危機感を募らせたのは、青白いなんて状態をとうに通り越して薄く紫がかってきた指先だった。はじめはじんじんと痛んでいたけど、それもだんだん薄れてきている。
すっかり凍ってしまって、プリーツが全く揺れなくなっているスカートから、今朝のニュースで見たロシアの世界一寒い村で洗濯をする風景を思い出した。きっと今の気温は摂氏零度どころではないはずだ。あの村と同じか、むしろそれよりもっと寒いかもしれない。
上履きで覆われている両足はまだ自由に動かせるけれど、だからといって安心できる状況ではない。ゴム製の靴底まで凍り付いているのか、いつもの履き心地とは全く違うのだ。
——今は帰り方について考えている場合じゃない。とにかく人の居る場所か、せめて冷たい風を凌げるところを探さなきゃ。
今は空も透き通って、全ての星座が教科書通りに並んでいるのがつぶさに確認できるほどだけど、そのうちに吹雪になるかもしれない。
歩こう。とにかく、ここではないどこかへ行こう。
– – – – – – – – – – – – –
どれくらい歩いたんだろう。
山もなく、岩もなく、ただただ買ったばかりのノートのように白い氷の床が広がっているだけだから、目印らしい目印は自分の足跡と頭上で明滅している南十字星しかない。その足跡も、始点は既に夜の帳の中に消えてしまっていた。
凍った上靴の底がパリパリと音を立てている。今にも硝子のように粉々に砕け散ってしまいそうだ。足首から先の感覚がほとんど無い。
もう限界かもしれない。体温が更に低下するのも構わずに、私は雪の上に大の字になって横たわった。もはや冷たいとも感じない。
遂に降ってきた。
雲ひとつ無い空から、粉砂糖くらい細かな雪が音もなく降りてくる。自身の上にも降り積もるそれを、私は払いのけるでもなくぼんやりと眺めていた。
ふと、学校の事が気になった。
荷物を残して突然いなくなったから、校医の先生辺りが気がついて騒ぎになっているだろうか。皆、心配してるんだろうか。
いや、期待するのはやめよう。2年生になってから、クラスメイトの顔を見たのは片手で数えられる程度だ。出席番号も忘れてしまったし、自分の席も知らないのだから。と、頭に浮かんだ光景にぐしゃぐしゃっと黒板消しをかける。
ふーっ。
体に残った僅かな熱を全て出し切ってしまうようにして、長く息を吐く。
白い水蒸気は見えない。確か、空気が澄んでいると水蒸気がちりや埃に付かないから、見えないんだっけ。
——このまま雪に埋もれてしまうのも良いかもしれない。
両目を閉じてもう一度深呼吸をしようとしたその時、遠くで何かが雪を踏む音が聞こえたような気がした。
目を閉じたまま、その音に耳を澄ましてみる。音の間隔からして、二本脚で歩いているようだ。ペンギンだろうか。ペンギンは魚以外の肉を食べるんだったっけ。
そんな事を考えている間にも音はゆっくりとこちらに迫ってくる。もう身を起こす気力も体力も残っていなかった。
足音が止まった。と、突然目蓋越しに視界が明るくなった。何か光を当てられている? という事は動物ではないって事?
疲労感よりも好奇心が勝って、恐る恐る目蓋を開いてみる。
わっ、眩しい!
目を細めると、光源の向こうに足音の主の顔が見えた。
ペンギンではなかった。
それは父と同じ年代らしいおじさんだった。黒い暖かそうなコートのフードをすっぽり被って、私の顔を覗き込んでいた。顔立ちは日本人とそう変わらないように思う。でも、この薄明かりの中だからそう見えるだけかもしれない。
おじさんは口を開いた。手に持った小さなランタンを脇に置き、屈み込んで私に向かって何かを言っている。
——寒さのせいで、鼓膜が変になったのだろうか。
私には彼の声が人の声に聞こえなかった。その声はひと昔前のテレビゲームのような電子音のようで、また幼い頃よく遊んでいたカズーという楽器の音色にも似ていた。音の源は確かに彼の口からで、何か楽器を使っている様子もなかった。どう考えても、人間の出せる音域の音ではない。
疲労と困惑で何も反応できずにいると、おじさんは話すのをやめて私の凍り付いた夏服を目に留め、顎に手を当てて少し考え込む仕草をした。
それから再び口を開いた。
「おじょうさん さむいでしょう ここ なにしてる だいじょうぶ?」
周波数が合っていないラジオのように所々ノイズが混じってはいたものの、それは日本語だった。
「こえ わかる?」
私は掠れた声で「はい」と返事をした。おじさんは安堵したように笑った。
「そこいたら こおってしまう うち きなさい。たてるか?」
力を振り絞って上半身を起こし、差し伸べられた手を取る。だけど両足は思ったように動いてくれなかった。
彼は背中に背負っていた、ぎょっとするほど大きなリュックから折りたたみ式のそりを取り出した。そりの先には赤いロープが結ばれている。数分かけて、何とかその上に乗る。
「どこへ行くんですか?」
と尋ねた。こんな場所に一人で住んでいるとは思えなかった。彼はそりを引いて力強く雪を踏み進みながら答えた。
「まち」
「街?」
「わたしたち つくった まち。きたのひと みんな しらない。なんきょくじん みんな そこ すんでる」
北の人って、北半球の国の人という意味だろうか。それとも何か特別な意味があるのだろうか。
「南極人」という聞いたことのない単語に首を傾げる。
研究の為に観測基地に滞在している人以外、南極に人間は住んでいないはずだ。聞きたい事があまりにも多すぎて、かえって一言も話せなくなってしまった。そのまま黙り込んで、彼の背中越しに前を見ていた。時間の感覚はすっかり狂ってしまっていたので正確な時間は分からないけど、かなり長いこと歩き続けていたと思う。
「みえた あれ まち」
立ち止まったおじさんの示す方を見ると、100メートルほど先に街灯がいくつもあるのが見えた。
街灯の周りには、大きな角砂糖のような形をした、白い建物が行儀良く並んでいた。
おじさんの事も「街」の話もさっぱり分からないし、温かいココアがあるかは分からないけど、とりあえずこの体を解凍することはできそうだ。