iv 燐光の香り
扉を開け、その光景を目にした時、私は遠い昔に観たある映画に出てきた、魔女の部屋を思い出した。
洗い立てのシャツのように真っ白で清潔な床、天井。壁の大半は大小様々な淡い水色の引き出しに覆われていて、その一つ一つに濃紺のインクで丁寧に書かれた分類ラベルが貼られていた。
引き出しの並ぶ壁を背にする形で、白いペンキで塗られた古く大きな作業机と濃紺の椅子が置かれている。机上は無数のビーカーや試験管、アルコールランプ、上皿天秤、攪拌棒、乳鉢などが乱雑に置かれ、それらを押しのけて作られた中央のスペースにはハトロン紙に載ったドライフラワーが数種並んでいた。
先生の私物らしきものは見当たらず、ここは仕事の為の部屋らしかった。
「今日からここがあなたの家。そして、この部屋が仕事場よ」
先生はそう言って作業机の前にもう一脚、古びたえんじ色の椅子を運んできた。
「これがあなたの席ね。座り心地が悪かったら、寝室にクッションが沢山あるから持ってきて好きに使うと良いわ。もっとも、調合中は立ったまま作業するのがルールだけどね」
彼女は壁に貼られたポスターを示した。文字は読めなかったが、描かれている絵は私の学校の理科室に貼られていたものとよく似ていた。
学校のポスターには「実験の前には手をよく洗おう」「薬品を扱う時は立って作業しよう」「換気と火気には注意すること」といった内容が書かれていたはずだ。これもそんな意味なのだろうと解釈することにした。
「調合って、何をするんですか?」
そう尋ねると先生は、引き出しの中を一つ一つ開けて見せてくれながら、これから手伝う仕事について、そしてこの街について、ゆっくり言葉を選びながら説明をしてくれた。
この街には、南極人と呼ばれる人々が暮らしている。
人々はコンピューター・ゲームの電子音に似た音域の「南極語」という言葉を話し、住民のほとんどは大陸の外へ出ることなく街の中で一生を終えるという。
南極人は「人」ではあるけれど、街の外に住む私達とは違う祖先を持った別の人種なのだという。
先生は引き出しの中から大きな図鑑を取りだして見せてくれた。その中の1ページには白く柔らかそうな毛並みを持ったお腹と、濃紺に白い水玉模様の背中、そして暗闇で青く光るオレンジ色のクチバシと足、瞳を持った動物——“ミナミマダラペンギン”という見たこともない愛らしいペンギンが描かれていた。
このペンギンこそが、南極人の祖先なのよ。と、彼女は誇らしげに胸を張った。このペンギンは100年ほど前のある日を境に姿を消し、その後彼らを見た者は居ないのだという。そして、彼らの存在を大陸の外の私達“ホモ・サピエンス”が知ることはなかった。
先生の家は、この街で診療所を営みながら、処方する薬を調合しては患者さんへ届ける仕事をしているとのことだった。
旦那さんは外で薬の材料を調達し、先生が診療所で診察を行っていて、診療時間中は数人の他の局員が薬の調合をするのだという。
「ところがね…」
と、彼女は乱雑な机の上に山盛りのプチ・クロワッサンの載った皿を置き、特に大きな一つを私に勧めながらため息をついた。そして話を続けた。
ある日の調合中に、小規模な爆発事故が起こった。
元凶は子供用のシロップ薬に使う粉砂糖とマッチ。粉塵爆発だった。
幸いにも被害は小さく、設備が元通りになるにはさほど時間はかからなかった。しかしその際にマッチを擦った一人の局員が利き手を負傷し、しばらく自宅で療養することとなってしまった。
局は規模も小さく、一人働き手を失った事は大きな痛手となった。
「すぐに新しい局員を探したけど簡単に見つからなくて、本当に困っていたの」
口一杯にクロワッサンを頬張りながら、そう言って満面の笑みを浮かべた。
「でも私、薬の調合なんてやったことないですし、理科の授業でもビーカーを洗う以外させてもらった事なくて、」
私が慌ててそう言うと、
「大丈夫大丈夫! 決められたレシピの通りにすればいいんだから、お菓子作りをするのと同じよ。それに、あなたに主に手伝ってもらうのは調合以外のことよ」
と言って私の背中を叩いた。クロワッサンにかかった粉砂糖が気管に入りそうになって、ケンケンとむせた。促されるままに冷めた紅茶(なぜかティーカップではなくビーカーに入れられていた)を喉に流し込む。
「何をすれば良いんですか?」
先生はビーカー入り紅茶を一気に飲み干して答えた。
「あなたには薬の配達員になってもらうわ」
「配達員?」
「そう。決まった薬を特定の患者さんの所へ届けたり、飲み忘れがないか様子を見に行ったり——医者嫌いの困った人もいるのよ——あとは、薬の材料になる特別なものを引き取りに行ってもらうこともあるわ」
面白そう、と好奇心が沸き上がったけども、それはすぐに足を踏み外して真っ暗なクレバスに落下するかのような不安感に変わった。言葉がこの院長夫妻以外に通じないという事を思い出したのだ。
そんな私を見透かしたような顔をして、先生は壁の引き出しの一つから何かを取り出して、私の手のひらに載せた。
それは文庫本ほどの大きさで、絹ごし豆腐のように艶やかで白かった。
ラジオだろうか、と思った。小さなつまみやボタンがいくつも付いていて、側面にはスピーカーとイヤホンを差し込むらしい穴があった。だけどラジオと違ったのは、アンテナがどこにも見当たらないという点だった。
適当にいじってみて、と促され、一番大きなつまみをひねってみた。すると聴力検査で聴くような高い音が鳴った。つまみを時計回りに回すと周波数が高くなり、反対に回すと低くなった。他のスイッチを同時にいくつも押したり、離したりすることで色んな音色が出せた。
「ここに操作説明のメモがあるから読んでね。日本語だから安心して。イヤホンを挿せば、出している音を自分の言語に翻訳して再生してくれるわ。しばらく練習すれば、イヤホンなしでも会話できるようになるはずよ」
どうやらこれは、小型の翻訳機らしかった。これでひとまずは言葉の問題はどうにかなるようで、ほっと息をついた。
と、その時、奥の居住スペースに繋がる扉からノックの音がした。先生がどうぞ、と答えると旦那さんがひょこっと顔を出した。旦那さんと先生は目が合うと何事か短く言葉を交わした。多分、私がここで配達員をする事になったと報告したのだろう。
会話が終わると、旦那さんは私に向き直って笑った。大人にこんな顔を向けてもらったのは、いつ以来だろうか。と、頭蓋骨の中の白いカーテンが一瞬風に揺れた。
「あしたから いっしょ がんばって」
周波数の合わないラジオのような声で彼はそう言って、私の両手のひらにある翻訳機の上に更に重ねるようにして、かちんと何かを置いた。硝子の感触がした。
それは香水瓶だった。細かなカットの施された四角い瓶に銀色の蓋がされ、口には少し日に焼けた跡のある水色のリボンが結ばれていた。翻訳機をスカートのポケットにしまい、片手に取って電灯の下でそれをまじまじと観察した。
中は月長石を液状にしたような、不思議な質感の液体で満たされており、色褪せた紫陽花に似た花や小さな宝石のようなものが、その中でクラゲのように揺らめき浮遊していた。
「おじさん、これは?」
彼は頬に人差し指を当てて軽く掻きながら答えた。
「しらないところ わたし よく ねむれない。あなた そうかも おもった。これ かいで びん そば おいたら よく ねむれる」
窓の外に目をやると、話に夢中になっていて気付いていなかったのだろうか、いつの間にか夜の帳が降りきっていた。さっきまであんなに明るかったのに。夜を自覚した瞬間、体中の疲れがどっと出て、特にそれは両足に重くのしかかった。
よく眠れるように。疲れが取れるように。
これは、おじさんのそんな思いの籠もった処方薬らしかった。
「あの」
「ありがとう」
お臍の辺りから金色のシャンパンのように湧き上がった感謝の思いを、何とか言葉にしたかったけれど、出てきた言葉はたった2文字と5文字の単語だった。
「いいからいいから、ゆっくりお休み。明日から、たっぷり働いてもらうんだから」
しばらく「開かずの間」になっていたという物置部屋に通され、ベッドに布団を敷き、僅かな所持品を山積みの段ボールの上に並べた。学校の夏の制服はベッドから直接見えない陰になる場所に畳んでおいた。借りた洋服と配達用の革鞄はよく見える位置に。
そして例の月長石のような香水の封を開けた。薬品の匂いを確かめる時のように、瓶の口を手で扇いで香りを吸った。
それは見た目通り、いや、想像もしなかったような不思議な香りだった。薄荷ドロップの冷たい清涼感が入ってきたかと思うと、それはすぐにホットミルクのような温かさに変わった。肺に取り込まれたその空気は肺胞を介して全身の血管に行き渡り、火花の弾ける焚き火に当たったかのように体を温めてくれた。
あっという間にやってきたラストノートに、よく知った匂いが掠めた気がした。脳内にミルフィーユの層のように蓄積された記憶を辿る。何だろう。埃を被った紙の束のようだ。
——ああ、これは図書館の匂いだ。
そう結論づけると、強烈な眠気と安心感が体を包み込んだ。おじさんの処方は正しかったみたいだ。
電灯を消し、香水の瓶を窓辺に置いた。天の川の僅かな光を反射して、街全体がぼうっと発光しているように見えた。
気のせいだろうか、窓辺の瓶も光っているように見える。
まあいいか。寝よう。
2度目の南十字星は、邂逅の時よりもずっと柔らかい色に見えた。