最後に「さよなら」したのいつですか?
ボクは広島、東京、デトロイトなど
引越しを10回以上しているので、
それなりの数の「さよなら」をしてきました。
それでも「さよなら」と言うのが上手になりません。
二度と会えなくても思い残すことがないくらい
言いたい事を全部言えた映画のような別れって記憶ってないです。
なんとなく「また、会えるよね」という感じで
お茶を濁してきました。
ついさっきも「さよなら」した時に、
いろいろ言いたかったけど、うまく言えなかった。
今いる会社でのボクの最初の上司の方が退任されました。
ひとつの会社で経理一筋43年9ヶ月、
とても素朴で会社が大好きな昭和の人。
背が低くて、いつも柔らかい物腰でニコニコしているけど、
なんかの拍子に逆鱗に触れると広島弁で
「じゃかぁしぃ!」と豹変し、
誰もが直立不動になってしまうような人でした。
ボクは37年しか生きてないから、
その人が働いた43年という月日がピンときません。
その想像できないような長い間に、
たくさんの人たちと怒ったり笑ったりしながら、
たくさんの「さよなら」をしてきたんだろうなと想像しながら、
ボク自身の「さよならを言う時の顔」って
どんなんだろと考えています。
その人がいなくなるのは寂しいですが、
松下幸之助や本田宗一郎や
スティーブ・ジョブズみたいな
象徴のような人たちでも
会社からいなくなってるわけで、
考えてみれば、離職率は誰だって100%です。
離職率どころか、みんないつかはいなくなります。
10年以上前に携帯電話のCMの中で
「別れるために僕らは出会った」
というようなフレーズがありました。
これを聞いた時に、なるほどなとしみじみ関心し、
新しい人に会うと「別れるために会ったのかなぁ」と
それ以来、考えたりもします。
次に会う人との「さよなら」も
きっと上手くはいかないだろうけど、
いつかボクが本当にいなくなる時、
最後の「さよなら」をハンフリーボガードのように
ダンディーにキメるための練習なんだと言い訳しながら、
しばらくはお茶を濁しときます。
「また、会えるよね」
今日のことば:
「さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家はなんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません。 」
寺山修司