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2F/当番ノート

ハイパーメディア無職への道

当番ノート 第3期


【警戒区域にある浪江町請戸地区で 撮影:中島麻美】

「福島の取材を続けたい」

 そう思って私が取った行動は、東京での仕事をすべて断り、後先考えずに福島に身を置くことだった。

 私が本格的に福島を歩くようになってから、すでに4か月が経過した。しかし、スタートは他の記者たちから遅れること丸一年。その頃には、東京ではもはや福島のことは以前ほど取り上げられなくなっていた。つまり、取材してもそれがお金になることはほとんどない。「潜在的無職」であるフリーランスライターの私にとって、仕事がないのは致命的で、出費はかさむ一方だ。

 それでも私は福島を歩くことをやめない。なぜなら、今も10万人以上の方々が故郷を離れ、避難生活を送っているからだ。

 採算を度外視して取材を続ければ、当然、お金はなくなる。実際、私の手元には今後も取材を続けるだけのお金がない。そこで私は「書くこと」「取材すること」を続けるために、なんでもアルバイトをしようと心に決めた。

「ハイパーメディア無職」

 これまでずっと「フリーランスライター」を名乗ってきた私が自分の肩書きをこう変えたのは、「取材を続けるためには何をやっても稼ぐ」と決意したことがきっかけだった。

「文章を書く人間が他のアルバイトをするなんて」と言われることもある。しかし、私はまったく気にしない。私が書くためには、取材することが必要だ。最終的に「書く」ためならば、他の仕事をすることに何の抵抗もない。

 そして私は労働に対する正当な対価を得るために、どんな仕事であろうと一生懸命にやってきた。これからもそうやって生きていく。肩書きが変わったところで、やることには何も変わることがない。私は「書くために」働くのだ。

 私はこれまで、引越し屋、砂利運び、パチンコ台作り、図書館での作業、塾講師、宮内庁書陵部での作業、建設現場での作業、コンサートスタッフ、ピザ屋のバイト、テープ起こし、パソコンでのデータ入力など、「書くこと」とは縁遠いアルバイトもやってきた。しかし、それは自分を生かすために必要な「尊い労働」だ。すべては「書くこと」につながっている。

   ***

「お仕事募集中」

 先日、私がツイッターでそう呼びかけると、ある人から「アルバイトをしませんか」と声をかけてもらった。それはネットショップの商品に特定のキーワードをつけて、商品の陳列順を入れ替える作業だった。

 私は喜んでこの仕事を引き受けた。そして細心の注意を払って作業を完了すると、「またお願いします」と頼んだ。おそらく無理やり私のために仕事を作ってくれたであろうその人も「またお願いしますね」と言ってくれた。

 その他にも、多くの方からアルバイトを紹介してもらった。警戒区域から避難している人から「バックホウ」と呼ばれる重機で避難先の農地を整備するお手伝いをしたこともある。


【バックホウでの農作業】

 これからもいろんな仕事をやるだろう。それは私が「書くこと」を続けるための選択だ。そのことをサポートしてくれる方々が世の中に存在するとわかったことは、私にとって大きな収穫だった。

   ***

 私はこれまで自分がしてきたアルバイトから多くのことを学んだ。なかでも思い入れがあるのが、19歳の時に経験したアルバイトだ。

 かつて私はヒーローだった。

 それも赤。「鳥人戦隊ジェットマン」の「レッドホーク」というヒーローだ。戦隊モノで赤といえば、立ち位置はセンター。つまり、正真正銘のヒーローと言えるだろう。

 しかし、その正体は大学受験に失敗した予備校生だった。私は浪人時代、小遣いを稼ぐために予備校の授業の合間を縫い、土日祝日にヒーローショーのアルバイトをしていたのだ。

 青でも緑でもピンクでもなく、赤になった理由は単純だ。たまたま私の身長が176cmで、他のバイトメンバーよりも見栄えがしたからにすぎない。アンパンマン、仮面ライダーブラックRX、カールおじさんのコスチュームをまとったのも同じ理由だ。衣装合わせをする際、他のバイト仲間たちはやや太めで、ヒーローの衣装がパツンパツンだったのだ。

 意外に思われるかもしれないが、ヒーローショーで一番難しいのはヒーローではない。ヒーローにやられる「悪の親玉」だ。私が中部地方の住宅展示場を行脚したチームでも、バイト先のボスは「悪の親玉」をやっていた。なぜならショーの進行はマイクを持った悪の親玉が組み立てるからだ。

 とはいえ、私はヒーローである。何の練習もせずに舞台に立つわけにはいかない。ヒーローショー自体は1ステージ15分程度と短いが、舞台に上る前にはしっかりと「稽古」を積んだ。

 予備校の授業が終わった後、バイト先の事務所近くの公園で、バイト仲間たちとヒーローショーのリハーサルを繰り返した。ある時、その練習を見にきていた東映の人から「JAC(ジャパン・アクション・クラブ)に入らないか」と誘われたこともあった。

 正拳突き、回し蹴り、剣を持っての立ち回り。スーツを着ないで繰り広げる悪の組織との乱闘は、傍から見たら滑稽だ。しかし、私たちは真剣だった。予備校の授業の合間に回し蹴りをしながら廊下を歩く私を、予備校の友人たちはいつしか「ジェット」と呼ぶようになった。

 少人数のチームでヒーローショーの巡業をやったことのある人ならわかるだろう。実はヒーローショーでは、ヒーローも最初は悪役を兼任している。なぜならショーの始まりは悪の組織の構成員たちが客席に降り立ち、会場の子どもたちを脅かすところから始まるからだ。

「へっへっへっ」

 スポンジでできた大きな鎌を振りかざしながら、会場の子どもたちを驚かせる。このとき、子どもたちには触ってはいけない。あくまでも「襲うぞ」というポーズだけで驚かせる。そして会場が温まると、緑のヒーローがたった一人で会場に現れる。そのヒーローに黒タイツの構成員が襲いかかり、あっけなく蹴散らされる。

「うわぁ〜〜!」

 黒タイツの構成員だった私はよろめきながら舞台の裾に隠れ、見えないところで素早く黒タイツを脱ぐ。そして手早く悪の仮面を剥ぎ、ヒーローの赤いヘルメットを装着し、「とぉ〜!」という掛け声とともに華々しく舞台に登場する。つまり、悪の構成員が着ている全身黒タイツの下には、ヒーローの赤いコスチュームが隠れているのだった。

 赤いヒーローがもっとも活躍するのは、ショーの後だ。赤はそのまま舞台上に出されたテーブルの前に座り、サインを書かなければならない。ヒーローショーのギャラだけでは稼げないため、ヒーローのかっこいい写真がプリントされた色紙にサインを書き、写真撮影に並んでいる子どもたちに売るのだ。

「ジェットマン☆」

「anパンマン☆」

【アンパンマンのサイン 撮影:中島麻美】

 本当にこんなサインがあるのかはわからない。それでも一枚500円の色紙は飛ぶように売れた。写真撮影の際には子どもを抱きあげてポーズを取る。それを延々と繰り返した。

 この時、チームのボスが私に言った一言が今も忘れられない。

「決して手を抜くな。お前にとって、子どもたちは何十人、何百人のうちの一人で、みんな同じに見えるかもしれない。だが、子どもたちにとってのヒーローは、お前一人だけなんだ。決して手を抜くな。子どもをなめるな」

 たった一人の人間を大事にできないものは、ヒーローにはなれない。ボスはそう教えてくれたのだった。

   ***

 私がボスの言葉を思い出したのは、6月29日、首相官邸前で行なわれた大飯原発再稼働に反対するデモの映像をインターネットで見たからだ。

 その際、私はツイッターにこう書いた。

「野田佳彦総理が官邸前デモの波の前に街宣車で突然あらわれて再稼働への理解を求める演説を始めたらちょっと見直す。国民に『大きな音だね』と言わせるくらいの演説を期待したい。何かを決めるって、それくらいの覚悟がないとダメじゃないのか。」

 それに対して、こんな趣旨での反応があった。

「メディアを通じて何千万人にも伝えられるすべを持つ人が、たった数万人のために時間を使うの? そんなにヒマじゃないと思う」

 なるほど、とは思う。でも、私の意見は違う。

 有名か、無名か。影響力があるか、ないか。そんなことは関係がない。目の前にいる人を無視したり、ないがしろにしたりしてはいけない。それが「たった一人の存在」であるヒーローや総理大臣の責任だ。同様に、福島から避難している人々も「たった一人の存在」だと私は思っている。

 私はすでに「ヒーロー」の仕事はやめている。だが、当時学んだことは、すでに私の体の一部になっている。

 「たった一人の存在」の思いを聞き、それを「たった一人の存在」である人々に伝える。それが私の一生の仕事だ。それはどんなアルバイトをしても変わらない。いや、どんなアルバイトをしてでも続けなければならない。

 だから私は福島にいることをやめない。


【いわき市内の新興住宅地の向かいに立ち並ぶ仮設住宅(右側)】

畠山 理仁

畠山 理仁

はたけやま・みちよし▼1973年愛知県生まれ▼早稲田大学在学中の1993年より週刊誌を中心に取材活動開始▼大学除籍▼フリーランスライター▼『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)著者▼ハイパーメディア無職 

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