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2F/当番ノート

日隅さんありがとう

当番ノート 第3期

 私と日隅一雄さんとの出会いは2010年3月。総務省が主催した「今後のICT分野における国民の権利保障等の在り方を考えるフォーラム」でのことだった。

 日隅さんはその場に参考人として出席していた。そして「表現の自由」の観点から、マスメディアにおけるパブリックアクセス導入の重要性を述べていた。

 当時の私は「記者クラブ問題」を取材していた。その過程で日弁連が記者クラブ問題を取り上げていたことを知り、日隅さんに興味を持ったのだった。

 フォーラム終了後、私は初対面の日隅さんに声をかけた。当然、日隅さんは私のことなど知るはずがない。私が簡単に自己紹介すると、日隅さんはニコニコしながら私に名刺を差し出してくれた。

「畠山さんは記者クラブ問題の取材をしているんですか。大変ですね。でも意味のあることです。頑張ってください」

 当時、オープンになり始めた中央官庁の記者会見場で、大手メディアの記者はほとんど私との名刺交換に応じてくれなかった。そんな時期に丁寧に両手で差し出された日隅さんの名刺を、私はとても大切に思った。

 その翌月の2010年4月。日隅さんは「会見開放を求める会(正式名称:記者会見・記者室の完全開放を求める会)の呼びかけ人の一人となった。私も呼びかけ人の一人として名を連ねた。

●会見開放を求める会の記者発表(2010年5月)

 2010年5月に「会見開放を求める会」が記者発表をした際、記者席に私がいるのを見つけた日隅さんから声をかけられた。

「大変だろうし、馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけれど、畠山さんがやっていることはとても大切なことだと思います。頑張って続けましょうよ」

 この頃になると、日隅さんは私が記者会見開放の現場で悪戦苦闘していることを知っていた。そして2011年1月、フリーランスの記者仲間を中心に自由報道協会を作った際にも、日隅さんは事務局サイドに回った私を何度も励ましてくれた。自由報道協会で会員同士が衝突した際にも、冷静なアドバイスで亀裂を埋めてくれたのが日隅さんだった。

 自由報道協会賞に「日隅一雄賞」という名前を冠することを許してほしい、と日隅さんにお願いに行ったのは、2011年12月のことだった。場所は東京電力の記者会見場。すでに代表の上杉隆氏も日隅さんに伝えていたが、私からも改めてお願いしに行ったのだ。

 私は東京電力本店3階の記者会見場で、自分の汚いノートにその旨を書き、ビリっと破いて四つ折りにした。そして無言で会見中の日隅さんに手渡し、日隅さんがその汚いメモを読むのを少し離れた席から見ていた。

 日隅さんは私の汚いメモを開いて読み終えると、私の目を見て、コクリ、コクリと二回うなずいた。私はその姿を確認すると、日隅さんに会釈をして、すぐに会見場を後にした。

 日隅さんはその後、自由報道協会賞の受賞候補者として一般の方々から数多くの推薦を受けた。しかし、そのことを知った日隅さんは一貫して「辞退させてください」と言い続けた。

「来年以降、私が推薦されるべきことをしていれば、推薦してください!」

 すでに医師から宣告された「余命6カ月」の時期は過ぎていた。私は日隅さんに何も言えなかった。

   ***

 2011年10月。東京電力と政府の統合会見への参加資格をめぐる問題が起きた際には、日隅さん、寺澤有さん、佐藤裕一さん、そして私も事務連絡担当者として名前を連ね、「フリーランス連絡会」を立ち上げた。東電や政府とフリーランスの記者たちが交渉するための窓口として作った組織だ。日隅さんは連絡会の中心メンバーとして、余命宣告期間を過ぎてからも、すべての記者の権利のために活動した。

 それだけではない。日隅さんは人間一人ひとりの権利のためにも戦った。最後の仕事になったのは、福島県双葉郡浪江町で牛を生かし続ける「希望の牧場」の問題だった。

 2011年11月以来、希望の牧場の吉沢正己代表が警戒区域内での車両通行証を申請する際、「警戒区域内でのネット中継は事前に許可を得ること」「マスコミは一切同行させないこと」などの同意書の提出を義務付けられていることを知ると、日隅さんは福島に足を運び、「これは表現の自由の問題だ」「検閲だ」と主張して国や町に公開質問状を出した。その結果、この理不尽な「規制」を撤回させたのだ。

「日隅さん、最後の仕事をしてくれたんだよな。本当にありがたかった」

 日隅さんが亡くなった後、吉沢さんは私にそう語ってくれた。

 私は日隅さんの闘病中、日隅さんの部屋の引越しを手伝いに行った記者仲間から聞いた一言を忘れられない。

「日隅さんの家、ベッドがないんですよ!」

 私が日隅さんに本当かと聞くと、「布団があると寝てしまうから、2、3年前に捨てた(笑)」のだという。病気がわかってからも、横になると痛みで眠れないため、寝る時は椅子で寝ていた。

「この人、なんだか意味わかんねぇけど、スゲえな!」

 私はつねにそう思っていた。

   ***

 日隅さんが危篤状態にあると聞いたのは、6月12日の夕方。私はまだ福島県で取材をしていた。今晩がヤマだと聞いた時、私は東京に戻るべきかどうか、少しばかり考えた。翌日も福島で取材の予定があったからだ。

「自分が納得するように行動すればいい」

 信頼する人たちに相談すると、皆がそう言った。私は車で東京に向かうことを決め、すでに病院で付き添っている木野龍逸さんに連絡をした。

「今、広野にいますがこれから向かいます」

「気をつけて。ゆっくりで大丈夫。たぶん」

 私が都内の病院に着いたのはその日の午後8時52分。病室の前に行くと、お見舞いに訪れた人たちが病室の外に出ていた。

「畠山さん、遅いよ……」

 ニコニコ動画の七尾功さんが私の左肩を悔しそうに押すと、くるりと背中を向けて壁際に歩いていった。

 私はその一言ですべてを理解した。私は24分、間に合わなかったのだ。

 日隅さんの着替えを待つ間、私は病院の待合室で日隅さんを知る先輩記者たち何人かに日隅さんが亡くなったと連絡をした。

 すると、ある人が私にこう言った。

「悲しいね。お互い体には気をつけましょう。神様はきまぐれだからね。ただ、我々は書いたものが死んでも残る。すでに永遠のいのちをもらっているようなものです」

 病院で日隅さんと対面した後、私は自分のハードディスクの中にある日隅さんの動画を探した。どれも手持ちで撮ったもので音声も画質も荒いが、思いのほかたくさんの動画が見つかった。

 だから最後にもう一度、日隅さんご本人に語ってもらいたいと思う。

●2011年12月10日/IWJ設立一周年パーティで
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=T9YotPJqpKo&w=560&h=315]

「正直言って、宣告期間は過ぎているんです。このまま、どこまで頑張れるか。頑張ります!」

●2012年2月8日/合同出版記念パーティーで
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Qm2OH8alQmo&w=560&h=315]

「簡単に説明しますと、最初に宣告を受けた段階で、いわゆる手術とX線の治療を受けられないということで、化学療法しかダメだということを言われました。
 まあ、化学療法と言っても、胆嚢がんっていうのはそんなに症例がありませんので、実際に効くとされているものが3つなんですね。

 私は一通り、3つを経験しまして、そろそろ、上がったり下がったり、いわゆる腫瘍マーカーですね、数値が上がったり下がったりするんですけれども、そろそろ、3つの効力というのが、まあ、いわゆる耐性というのをがんというのは持ってしまいうものですから、そろそろ、そういう意味では、いわゆる、奇跡、というものですね。まあ、私は奇跡ではなくてなにがしかの科学的な理由があって、そういうものが実現するんだと思ってはおりますが、まあ、奇跡というものが求められる段階に入っている、きたのかなあ、と思います。

 ですので一つ目のお願いはですね、ぜひ、日隅、ということをもし思い出していただけるのであれば、ぜひ、気をですね、送っていただいて、みなさんの気を受けてですね、私は頑張って行きたいと思っています。

 2つ目は、まあ、そういう日隅が言っていたですね、マスメディアを改善するであるだとか、あるいは国民主権というものをですね、より実現するための仕組み、というものについて、今、いったいどういうふうに動いているんだろうなということをちょっと考えていただいたり、何かできることはないかなあ、ということで、一つでもしていただければなあというふうに思っています。

 それから3つ目は、そういうシステムにあるがゆえに、声が上げられない人、声を上げても、それが届かない方々が、国内だけではなく、世界中にいます。
 沖縄の人たちは非常につらい日々を送ってこられたし、これからは福島の方々がそういう日々を迎えることになると思います。

 世界に目を向ければ、中近東の問題もあれば、アフリカの問題もあります。アフガン、それから、イラン、イラクの問題もですね、果たして、一方的に、マスメディアが流している情報だけのような、テロリストと決めつけられるような状況だけなのでしょうか。

 アジアに目を向ければ、北朝鮮ではいまだに抑圧された、自分の国の政府に抑圧された方々がいますし、中国では少数民族の方々が厳しい状況に置かれています。

 そういう人たちの声に耳を傾ける日、ちょっと今日はそういう人達に耳を傾けてみようかな、今日はソマリアデーだとかね、今日はチベットデーだとか、そういうふうにして、そういう声が届かない人たちにぜひ耳を傾けていただければと思います。

 さきほどお話ししたように、客観的にはですね、これがみなさんとお話できる最後の機会になるかもしれませんけれども、主観的にはまだまだ、私は、このシステムがどのように改善されたかということについて、検討できる、みなさんとお話できるような機会をぜひ持ちたいと思っております。

 NPJ(News for the People in Japan)の編集長として、対談企画を月に一回ずつ、10番勝負という形で今まで2番やってきています。3番4番5番とこれからも続けていきたいと思っていますし、さらには絵本を書きたいなと思って、『大きな木の上の大きな目』という絵本を書いていて、ストーリーはできていますけれども、今、絵を知り合いの方々がつくったりしています。まだまだ私は伝えたいことがありますし、元気があると思っています。

 今日という日が、民主主義というシステムを充実させるシステムを採用させるための静かな革命、『主権在官』から『主権在民』への静かな革命のための一里塚の一つとなるような機会になれば、とても嬉しいと思います。

 ありがとうございました」

●2011年12月16日/自由報道協会記者会見で
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=oVo61Lwz5hs&w=560&h=315]

日隅「選択肢というのは、当然、避難するのであれば避難に伴う費用をきちんと政府なり東電なりが負担をするということが前提ですよね。そうなって初めて自由にそこに住み続けるのか、それとも自分たちで避難するのかということを決めることができるわけです。

 ところが、その話をすると政府等はチェルノブイリの時の例を持ちだして、『チェルノブイリは一年目は100ミリシーベルトだったじゃないか』という話をするわけですね。

 ところが、チェルノブイリで何ミリシーベルトと決めたのはソ連であって、ソ連が解体されてから、ただちに各共和国は1〜5ミリシーベルトについてはちゃんと損害賠償を払って避難もできるという選択肢を示している。

 5ミリシーベルト以上は基本的にはそこに住んではいけないという判断をしている。それはソ連だったから100ミリシーベルトだったんであって、それが解体された直後にそれが1〜5ミリシーベルトまで下がっているということが象徴的です。

 今、日本がやっていることはどちらかというとソ連に近いことをやっているわけであって、ソ連解体後のいわゆる共和国のレベルにさえ達していないということだと思います」

●2011年12月16日/自由報道協会記者会見で
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=1e46w8A3iBY&w=560&h=315]

上杉:今日登壇されている日隅さん。無理に来ていただいたのは、日隅さんがずっと統合会見だけは出たいと。ご存じない方もいらっしゃいますが、今年の5月にがんが発見されて、余命半年ということで、そのとおりだったら今、この場にはいないんですが、本当に無理を押して今日の、そしてその後の統合会見の後に開かれている自由報道協会の会見に出ていただいたということです。

 本当にそういう意味では無理をしてしまったんで、みなさんのほうで、日隅さんには後ほど拍手もあるんですが、その部分をぜひ知っていただきたいと思いまして、改めてマイクを勝手に奪いました。最後、日隅さんから一言。

日隅:いまご説明いただいた通りの状況なんですけれども、幸い、たとえば昨日だったら私来れなかったんですよ。昨日はもうお腹が痛くて、薬を飲んでも寝られないような状況でした。

 それがなぜか会見があったり、ニコ生の関係とかですね、出させていただくときにはなぜかこれ不思議なんですけれども、ある意味、力をいただきながら頑張れているのが、宣告期間を超えることができるたった一つの理由かなと思っています。

 今後、会見の形がどうなるかわかりませんけれども、福島のことにぜひ注目をし続けていただきたいと思います。よろしくお願いします。

   ***

 日隅さん、たくさん教えてくれて、ありがとう。

 福島県にて。畠山理仁

畠山 理仁

畠山 理仁

はたけやま・みちよし▼1973年愛知県生まれ▼早稲田大学在学中の1993年より週刊誌を中心に取材活動開始▼大学除籍▼フリーランスライター▼『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)著者▼ハイパーメディア無職 

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