突然クスクスが食べたくなったこと。
そして意識は頭上5センチあたりを彷徨う。
クスクスに想いを馳せて頭上5センチあたりに手のひらを翳してみたが、想い虚しくそこにクスクスはなかった。
やっぱりクスクスはあんなに粒々なくせしてちゃんとした実体なんだな、と自分の想いの足らなさを宥めた。
というのも抽象こそがリアルで、世界のあらゆる物体は実は概念的な何かでしかないんじゃないか、
という無根拠な想定が近頃この頭を支配しているからだった。
わかりやすい例をあげれば、マトリックスのバーチャルリアルや可視光線の主体性。
ありきたりな事でいってしまえば、相対的な感覚主義。
結局自分は自分の脳から逃れられないこのプチ絶望感。
または絶対的な絶望から突き出た曖昧な楽観主義。
手塚治虫の漫画に『上へ下へのジレッタ』がある。読んだのはずいぶん昔なので記憶も曖昧だか、
確か自分の妄想を人に伝達できるジレッタという世界があった。なんて素敵な世界だろう。
あらゆる感覚や物質へダイレクトにアクセス出来る時代の到来。
妄想 1
村上春樹新作朗読会ダイレクトアクセス。来場された読者全員の脳と村上春樹氏の脳を繋ぎ、
その場で新作をダイレクトに伝達する催し物。4D IMAXシアターを軽く凌駕するスーパーリアル体験。
妄想 2
最高級レストランにて。来店されたグルマンたちとシェフの脳を繋ぎ、フルコースをダイレクトに振舞う。
エル・ブシの分子ガストロノミーを軽く凌駕する超味わい体験。
話を少しだけ元に戻すと、サルバドール・ダリやアングル、ルドンは写実的だった。
さらにはあらゆる絵画の方が写真よりも写実的だった。写真に真実が写ることは本当に稀な出来事で、
といってそれでその写真の価値が上がる訳でもなかった。嘘が写真のいいところゆえ。
そいいえば昔こんな歌詞を書いたことがあった。
“いつもの浮浪者がアイロンの効いた白のワイシャツを着て、大通りを横切っていった。
彼の左手にはいつものピルスナー。今日だけはありもしない王冠が彼の頭に光って見えた。
車は彼を敬うように、ゆっくりと避けていった”
想いこそすべて。
ようやくクスクスが局所的に頭上から降り始めた。