生き物の中身を、私は見てみたいと思う。
生きている私。呼吸をして動く、動物の、その皮膚の内側。そのからだ。こころ。
私は私の中身を見たことがない。
大学に入ってから、動物の骨を標本にする活動を始めた。
純粋に骨への関心もあったけれど、私にとってその一連の作業は骨格標本を完成させることを目的としているのではなかった。
私は生き物の中身を、この手と眼で、直接確かめたかった。
知っていますか?
生き物の内臓は、くさい。
ものすごく臭い。笑えないほど臭い。
処理の際に誤って内臓に傷を付けてしまうと、そこからひどい匂いが漏れ出す。
自分は耐性がある方だと思ってはいるけど、それでも、その匂いには未だ顔をしかめてしまう。
生き物はくさいのだ。
どんなに表面を綺麗に磨いても、美しい言葉を吐いても、
からだの内側の奥深くには誰にだって浅黒く匂いのきつい内臓が詰まっている。
そういう考え方が、おそらく常に、私にはある。
実際に自らの手で、生き物の皮を切り開き、肉を削ぎ、その内臓ひとつずつを取り出していくと
残った骨はあまりにも頼りなく、輪郭のうすいあやふやなものに感じる。
それに比べれば確実に、この内臓、
だらりと重みを感じさせ、ぬらぬらと光ってにおう内臓。
ここに私たちのどろどろしたものや、思考なんかが詰まっている。そう思う方がよっぽど頷けると、私は感じる。
きっとみんな隠したい類いのそれだ。
誰だって自分の中に汚い物があるなんて、とてつもなく臭い物があるなんて
思いたくもないし、実際そんなこと想像つかない人もいるかもしれない。
けれどあんなにも、詰まっている。
見せたくなくて、恥ずかしいものが。
それが確かにこの体の中身にあることを、どこかで自分はほっとしているのかもしれない。
綺麗なものは魅力的だし、純粋に求めてしまう。
優しい物語は心をふるわせ、人を幸せにしてくれる。
けれど時たまそんな物たちを、すべて遠ざけたくなる自分がいる。
優しいだけでは物足りない、表面をそっと撫でているようにしか思えない。
そんな薄っぺらな物だけじゃ、生きていけない。
私の絵を見て、ドロドロしていると言ってくれた友人がいた。
この連載の一番初めの記事で、一番最後に載せた絵。
私の絵は明るい彩りで描くことが多いから、あまりそこに内包された物まで汲み取られることはない。
けれどもそうやって指摘されたとき、やはり私はほっとした。
この中身が渦巻いていてもいいと。
汚い内臓を持った私は常にここにいてもいいと。
やわらかい光の中で、鳥の羽根をむしるような生き方でもいい
部屋の中を乱暴にすべて引き倒してもいい
それでしか実感を得られない。
そうやって感じるリアルしか、信じられないし信じたくない。
私の中身には、ちゃんと内臓が詰まっている。