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2F/当番ノート

みみこちゃんの恋人たち(6)

当番ノート 第12期

トン
と小さく高い音が、ただ一度だけ飛び込んでくるのが聞こえました。
過去の恋人たちとの再会を繰り返すことで、
彼が必ずいつかは現れることは分かり切っていたのですが
それでも顔を見た瞬間に「ひっ」と一瞬息を止めてしまうことをみみこちゃんは避けられませんでした。
「コウくん…久しぶり」

彼の薄平べったい身体と共に、扉の隙間からは宵闇が忍び込んでくるのが見えました。
もうすぐ夜が来ます。一日が終わるのです。
「元気?元気そうじゃんね?」
そう尋ねる彼の声は、心なしか小さく震えているような気がしました。
本当はとても気が弱いくせに、空気がシリアスであればある程少しでも茶化さないと気が済まない、
彼は昔からそういう人でした。
「”コウくん”ですね。交際期間は二年。今までで一番長いですね」
「そうなんだ?いぇーい」
ねこたくんはピリピリとした空気をまとったままで、ふざけるような彼の発言にギラリと目を向けました。
「二人の交際はどういうものだったかお聞かせ願えますか」
「どうって言われてもなあ…フツーだよ。フツー。ねぇ?」
彼は生まれてはじめての恋人でもなければ、はじめてキスをした相手でもなかったのですが、
世間一般に言われるような”普通”の恋をみみこちゃんに与えてくれた人でした。
「うん、フツー」

例えば冬の寒い日に、みみこちゃんの手をとって「あったけー」なんて照れた顔を隠せずに言ってくれるような
例えば二人の記念日の朝、まだ寝ているみみこちゃんの指にこっそり指輪をはめて驚かせてくれるような
『こういうの漫画やドラマで見たことある』なんて思わず笑ってしまうようなステレオタイプの恋を贈られるのは
思っていた以上に嬉しく、くすぐったいものだったことを覚えています。
「では二人が別れるに至った原因は?」
「えっ!?そんなこと言わなきゃならないの?ってもなーそんなのもう覚えてないよ。
 よくあるすれ違いってヤツ?じゃないの?」
あの頃、彼は仕事を始めたばかりで毎日忙しく、
同じ家にいるというのにみみこちゃんとはろくに顔を合さない日もあった程でした。
彼としては勿論みみこちゃんを蔑ろにしていた訳ではないのですが、
そうは言っても自分の夢である仕事のスピードにしがみついていくのに精一杯で
みみこちゃんはみみこちゃんで、それを十分理解していたつもりではあったのですが
それまで貰ってしまったくすぐったい嬉しさの味を身体が忘れてはくれなくて、
ついイライラしてしまったのが最初のきっかけだったように思います。
こんなことになるなら、始めからあんな気持ちにさせてくれなければよかったのに、って。

「なにちょっと悲しそうな顔してんのー?やめなよ。みみこちゃんは前からそういうところあるよ」
思いに耽っていたみみこちゃんの顔を覗き込むようにして彼が言いました。
ああそうだ、彼はこういう雰囲気が本当に苦手で、みみこちゃんが深刻そうにしていると
いつもこうやって明るく怖そうとするところが、とても嫌だったことを思い出しました。

「ていうか、俺と別れる時『君は最初で最後の恋人だ』なんて泣いた癖に
 ちゃんとその後も彼氏が出来てたんじゃん。安心したよー」
そうやって、自分だけニコニコ笑っていれば場が切り抜けられるだろうという浅はかな考えが本当に嫌だったのです。
「最初で最後だよ。コウくんの前にも後にも、恋人だったなんて呼べる人はいないよ」
「…やめなよ、そういうの。他のみんなに悪いじゃん」
思えば人間が恋というものにはじめて出会ったのはいつなのでしょう。
それを恋と呼ぼうと普遍的な概念に作り上げたのはどうしてなのでしょう。
僕達は、自分の心のどの部分が恋を求めて鳴くのかも知らないうちから
周りの大人達や、先人達の創り出した恋物語でそれを成形しようとします。
そして、みみこちゃんにとっては夢物語でしかなかった恋というものを
形あるものに作り上げてくれたのが他でもない、今目の前にいる彼だったのでした。
同時に、それを壊してくれたのも。

「そうだよ。悪いよ。だから何?」
「あのねえ…」
二人の関係が終わっていく時期は、こうした会話ばかりでした。
お互い終着点を求めず、ただ己の感情を発露するだけの生産性のない口論。
最早何に怒っているのかも分からなくて、そんな自分が嫌で嫌で、
だから最終的にお別れすることをみみこちゃんは選択したのでした。
そして再会してしまうことで、そんな嫌いな自分にもう一度出会ってしまうかもしれないことが
怖くて仕方が無かったのです。
「止めてください、二人共。そういうことをするためにお呼びしたんじゃありませんから。
 では最後に二人の恋に点数をつけてもらえますか。そうしたら帰って頂いて大丈夫です」
昼過ぎに聞いたものと違うねこたくんの低く落ち着いた声が
モヤモヤと濁ったみみこちゃんの心をほんの少し晴らしてくれる気がしました。
「点数!?何だよもー知らねーよそんなの」
余りにもブツブツと文句を言うので、みみこちゃんは「聞きたくない!」とでも怒鳴ってやろうと思っていたのですが
「72点とか?」
意外とすんなり、そして思ったより高い点をくれたのでみみこちゃんは思わず面食らってしまいました。
「それでも、無かったよりは良いと思ってるよ俺は。あの二年間のこと」

窓からはすっかり陽が差し込まなくなったので、ねこたくんはそろそろランプを灯す準備を始めました。
彼が部屋から立ち去った後、みみこちゃんは消沈してしまい、ボウっと椅子に座り込んだままでした。
「最初で最後の恋人だって、本気で思っていたの。
 私が思い込んでいた恋というものの、甘い部分も苦い部分も彼が全部くれたから。
 それ以上のものが今後貰えるとも思わなかったし、もう二度とそんな思いをしたくないとも思っていたんだよ」
みみこちゃんの目線はぼんやりと机の木目を彷徨っていましたが、言葉は確かにねこたくんへと届けられたものでした。
心を刺すみみこちゃんの告白にねこたくんは何か言ってやろうと思いましたが、
それにはまだ少し早いことに気が付きました。
日が沈んだ街の闇の中から、最後の訪問者が顔を出します。

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